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イメージの旅2007

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闇夜のシンパクの画像を反転してみました。

水墨画のようなタッチになって、おもしろくなりました。

先日、知人に頼んでいた、某SNS内で楽しんでいたBornsaiるねさんすの全記事のコピーが送られてきました。
10年前のパソコンでは、CDにデータを焼くなんて、随分とハイテクノロジーな事であったと思われ。

こんな時に頼りになる仲間がいる事に、感謝。

しかし、冷静に今読んでみると、あくまで楽しみを提供する側にあるにもかかわらず、まぁ、なんといい加減なことでしょう。今更ながらに、自分勝手な振る舞いと責任の無さに反省しきりであります。

こうやって、画像を加工して遊んでいたのは、緑青さんのアイデアであったわけですが、今は一方的な記事に終わってしまうのは、正直寂しい気持ちになる事もあるのです。

しかし逆にいえば、バーチャルな世界の怖さを今まさに痛感しているわけでもあります。

盆栽は、そこに実体として確実にあるものですが、鑑賞の楽しみ型は大きく分けて二つです。

1つは、その物体としてある盆栽の希少価値、時代性、などモノとしての鑑賞です。

2つめはその盆栽が映し出す景色を楽しむ事です。

懸崖の樹を例にあげると、上の場合、この大きさで、忌み形のあるなし、この葉性で、これくらい丹精されていて、など、そこにある実体をあくまで相対的に比較していくものです。ここには樹の種類や性質、技術、流行がかかわってきます。

下の場合、この樹があるような場所は千尋の谷で、常に強風が吹き荒れて、その谷には仙人が住んでいて、、、というように、それを鑑賞している人の内なる自然によるわけです。イメージの世界ですね。

ただ、この2つはまったく別の道にあるわけでなく、どの樹を鑑賞するにおいてもこの両方が複雑に絡み合っているのです。

黒松の芽きりによる短葉法ができる以前、葉の小さいエゾ松や五葉松を、白砂青松の遠景として鑑賞したりしていたそうです。昔の方の感性に頭が下がります。黒松や赤松と違い、すくなくとも五葉は高山帯の植物。いまでも五葉松に「春の海」とか「白砂青松」なんて名前がついていますが、なんで高山帯の樹木に海の名が?と思いますが、じつはそういった先人たちの感性が隠れていたわけです。

というよう、にその性質がイメージに及ぼす影響は色んな意味で当然ながら大きい。

僕たちはエゾ松を黒松の遠景として楽しもうとしても、「いや、これえぞまつでしょ?」というだろう。

以前養老タケシが、彫刻家の船越桂との対談で、「具象をあつかうと、非常に抽象的になる、それが人間」と仰っていました。

もちろん、意味はわかりません。でも、この言葉に盆栽を考えるヒントがあるのではないか?

そう思えてならないのです。

話はもどりますが、ネットをやっていると、ここにある某おっさんボデーからきりはなされた自分がこのブログにいるような体験をする事があります。

精神はどこに宿るの?

イメージの旅をするなら、やはり盆栽でしたいものです。

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