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ツタナイ盆栽論(仮)

僕たち人間が、大昔に猿から分かれて以来、僕たちは様々な形で自然とのコミュニケーションがはかられていきました。

それは僕達が歌を聴けば歌いだし、踊りだすように、僕たちのご先祖様も美しい自然を目の当たりにして、歌や踊りでその感動を表現してきたのです。

そんな表現の1つ、盆栽も、自然の樹木や風景に感動を覚えた人々が、その自然を生で表現したいというエネルギーの結晶なのかもしれません。

もし、盆栽に日本の伝統をいうなら、そうした盆栽への動機が、盆栽が生まれるより前から、今現在も、僕達の心の中に脈々と生きてきた事、それなのだと思うのです。

盆栽が日本の心そのものではなく、日本人の心の中に盆栽を育む土壌があったという事なのです。

それは日本だけに限らず、世界中の人々の心にもあるのです。

なぜなら現在盆栽は世界中に広まり、日本の文化というレッテルが貼られたままだとしても、それを受け入れる心が、海外の人々の心に既にあったという事なのですから。

だから意外かも知れませんが、盆栽が必ず「わび・さび」とイコールではないのです。

明治初期の文人さんたちが、盆栽の中でも形態的、精神的に適した樹形を選んだわけで、

その土壌に適した盆栽の姿があったというだけで、

今日の盆栽のすべてが「わび・さび」の対象とは言えないという事なのです。

盆栽の形もずっと維持する事の出来ないものですから、そこに携わる人々の心も一箇所にとどまらず、したがって盆栽は人の心を映す鏡だともいえます。

ですから、盆栽はその人の心の中にある内なる自然の表現とも言えるわけで、必ずしも実在したり、生で見た景色の切り取りでなくてもよいのですが、その人の心の中にある内なる自然が希薄であれば、その人が表現する盆栽もまた自然らしさに欠けるものとなってしまうでしょう。

あなたが、様々な盆栽と名のつく植物による表現を目の当たりにした時、そこから自然らしさを感じとれないなら、あなたの内なる自然か、或いは表現者のそれが、希薄であることの証明なのかもしれません。

内なる自然は、正直に表現に現れてくるものだと思うのです。

盆栽は口ほどにモノをいう。

そこで盆栽に貼られている多種多様な観念のレッテルをはがした時に残るのは、

一つ目は、盆栽の出発点は、自然を愛する人の心から始まったという事。

二つ目は、色々な考え方の中で、多くの人々の丹精を受けながら、命が繋がれて来たこと、そしてつないでいくという事です。

この2つは、どんなに盆栽の様々な考え方があろうとも、盆栽にとっては変わらない事実であると思います。

極端な話、この二つの想いがあれば、仮にすべての盆栽が枯れてなくなろうとも、僕たち人間の未来が続くかぎり、また誰かが、盆栽のような自然とコミュニケーションをとれる新たな何かを生み出すに違いありません。

自然を前にいてもたっても居られないのは、人間の本能だと思います。

だからこそ、僕たちは自然を愛し、盆栽を丹精こめて育てる事によって、失ってはいけない大事な感性を育むことができるのです。

最後にくだらないダジャレ。

「樹愛だ!樹愛だ!!樹愛だ~!!おい、おい、おい!」

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横道

今日、ニュースでしきりに流れていた、発砲立てこもり事件。

あれめっちゃ近くでした。

仕事中にやたらとパトカーがサイレンを鳴らして走り、そらにはヘリコプターが何機も飛んでいました(今も飛んでます)

厳密にいうと、仕事場から自転車で3分でいけるコンビニが、最初の発砲殺人事件の現場でした。

現場は、黄色いテープで仕切られて、実況見分みたいなことをしていました。

つうか、その道路むかいの居酒屋で、飲むことが結構あって、1週間前くらいもその居酒屋で飲むのに、そのコンビニに自転車を止めていたくらい、身近な環境での出来事でした。

普段の日常に入り込んだ非日常。

こわいっすね。

内輪モメだから抗争にはならないと思うのですが、しばらくその辺りには近寄らないようにしようと思います。

ちなみにその頃、ちかくの農協で強盗があって、犯人は逃走したままだそうです。

その犯人、自分がヘリで追っかけられてると思って、そうとうあせってるんだろうな。

知り合いの農協のひとが教えてくれたのですが、ダミーのお札を渡したので、被害は上としたの2万円だそうです。

まったく物騒です。

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ムシのしらせ

新緑力強く、ますます鮮やかな日々。

心踊るのは決して僕たち人間に限らず、虫もたちも同様です。

さっそく新芽に芽を凝らすと、アブラムシがチラホラしてたり、カイガラムシたちの発生の予感もします。

肥料の時に話しましたが、薬が虫から樹を守ると考えるのは、安易過ぎます。

薬品は、多くは、人間でいうところの「炎症を鎮める作用」であるといえます。

虫が大量発生するのは、虫が大量発生する要因があるという事だし、病気に関しても同じです。

例えば、カイガラ虫が大量発生するのは、風通しの悪さであったり、ハダニは高温乾燥だったり。樹に関しても、樹勢の良し悪しや、特定の肥料過多であったりと、その要因は様々です。

まるで現代人が病気になったときに、人間関係や食生活、運動不足や年齢など、様々な要因が病気の引き金になるのと一緒ですね。

僕も、いくつか慢性疾患をもっているので、薬を飲みながらも、普段の食生活や運動も人並みに気を使っているつもりです。

極端な話、暴飲暴食するために胃薬があるわけじゃないし、花粉の中に飛び込むために、抗アレルギー薬があるわけじゃないですから、

盆栽も、盆栽という本来の自然とは異なる環境に置くために、薬や肥料があるわけじゃないのです。

実際そうじゃないか!という人もいると思いますが、これは大事な事で、薬に頼りすぎると、耐性がついた虫や菌が発生したり、抵抗力の弱く、すぐに病気や虫にやられる虚弱な樹になってしまいます。

そう聞くと、頑なに薬を拒む人もいます。これも極端な発想です。

やはり、目の前で病気に冒されている樹を放っておくのは酷な話ですね。大量に発生したり、病気が出たときは、しっかり薬で駆除なり対処しないと、最悪枯死させることになりかねません。

その後、病気や虫が発生してしまった原因があれば、可能な限り改善し、その状況の限度において、薬を使って予防するというわけですね。

それぞれが住む街や棚場に、それぞれの環境があるわけだし、そもそもが不自然な環境であるわけですから、どうしても肥料や薬がないと、盆栽の維持は難しいのは事実です。

でも考えてみてください。

あげる肥料がより効いてくれる事、薬品の量を可能なかぎり少なくする事、これってば親が子を思う気持ちじゃないですか。

結果が完璧かどうかなんて、野暮な話をしているわけじゃありません。

よりよい環境で育ててあげたいっていう、親心が大事なわけです。

鉢面が草だらけでも平気な人がいますが、誰に栄養あげてるのでしょう?雑草がより虫や病気をよんでくることもあるわけですし。

愛情があれば、誰にでも自然と起こる事、考える事だと思います。

育てる資格があるとか無いとか、そんな話をする人も野暮ってもんです。

最初から親だった人はいないじゃないですか。

今目の前にいるその子たちが、あなたを素敵な盆栽好きにしてくれるんです。

「そしていつか誰かを愛し、その人を守れる強さを、自分の強さに変えていけるように。」

って、槙原の歌、CMで流れてる。

なぜか盆栽で的をえた。

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あげ!あげ!肥料

もうダイブ芽が動き始めたのではないでしょうか?

僕が今いる盆栽園でも、いやぁ、賑やかなものですよ。

キラキラと新芽がまぶしくて。

ところで目覚めたばかりの樹に肥料をあげないのは、簡単な理由で人間が朝目覚めたばかりで、いきなりご飯を食べるのはしんどいでしょう?

盆栽だって、目覚めていきなり肥料をあげたら、場合によって肥料あたり(人間で言う食あたり)をして、樹を傷めてしまうことがあるんです。

だから、少しばかり芽がほころんで葉っぱが形をなし始めた頃が、春の肥料のあげどきになるわけです。

あくまでイメージとしては、さなぎから帰ったばかりの蝶の、羽が開くまでのあの状態に似ているでしょうか。

てなわけでして、ここ数日は状態によって肥料をあげはじまったわけです。

もちろん朝ご飯の摂り方にはいくつかの型があります。ここではそのいくつかの例をあげたいと思います。

①植替えした樹の場合

植替えした樹は、根っこを切られている事で、栄養をすんなり吸収できず、肥料あたりを起こしやすい状態です。

人間に例えるなら、胃の摘出手術をうけたあとは、おかゆでならしていくでしょう?

安全を期すなら、樹も人間と一緒で、植替えした樹は、植替えしてない樹より少し遅らせて肥料をあげて、最初は少なめに様子を見てあげます。芽だし後の芽の伸びが悪い樹は、液肥をあげるという事もあります。液肥は起き掛けの栄養剤みたいなものですね。

②春から力を乗せたい樹

とくに黒松や赤松など、芽きりをする予定の樹は、春から他の樹種よりは相対的に多く肥料をあげます。葉がりを予定している樹も、肥料を効かせると、葉刈り後に、樹勢を落とさずに済むことにもなります。もちろん、それだけ原因とは限りませんが。

朝から働く人は、朝ご飯をしっかり摂るみたいなものですね。

③五葉松

五葉松は基本的に春の肥料はあげません。

なぜなら、肥料をあげ過ぎると、葉っぱが伸びすぎてしまうからです。

これは、樹にとっては勢いがつきすぎたわけですから、悪い事ではないのですが、短く締まった葉が魅力の五葉松ですから、鑑賞上不都合にとらえられてしまうわけです。

これも状況に応じて、例えば、若樹で力をつけたい、鑑賞はまだ先でいいなら、春の肥料は効果的だし、樹が弱っているなら、液肥で様子を見てあげるのもいいし(弱ってる樹も根が弱ってますから、施肥は慎重に)、逆に枝先が細かくほぐれだした樹に、あまり肥料をあげ過ぎると、枝先がごつくなって、せっかくの丹精が台無しになります。甘やかしすぎて、太ってしまったペットみたいなものです。

これは、五葉に限らずですから、じっくりとその樹の状態を観察することが大事ですね。これは何度でも繰り返し書きたいと思うことです。

という訳で、いくつか例をあげてみましたが、最後に大事なポイントですが、

肥料はあくまで、「樹の成長を補助するもの」、ということです。

人間で言うところの「サプリメント」といいますか。

植物は当然ながら、その育つ環境こそが、樹を丈夫に育てる一番の要因です。

大きな勘違いをしている人は、弱った樹は肥料をあげると元気になる、と思っています。

そうではなくて、様々な環境で補いきれない部分を、肥料で補っているという事なのです。環境を改善して初めて、肥料も効果を発揮するというわけですね。

例えば、根腐れした樹は、いくら肥料をあげても、かえって根っこを痛めるだけだし、仮に痛めないにしても、鉢を乾かしてあげて、根っこの酸欠状態を解消しなければ、肥料なんてのは意味が無いというわけです。

肥料に頼ってしまう前に、しっかりと樹の状態と環境を観察して、その状態をよりよい方向にもっていくことは、もはや盆栽培養の大前提でもあります。

人間も、薬に頼りすぎる前に、生活習慣を改善しますよね?

僕たち人間は、自分で自分の環境をかえられる精神を持っていますが、盆栽たちはやはりその環境を人の手に委ねざるえないわけで、

じっくりと樹と会話して、そのあたりのことちゃんとわかってあげたいなって、僕は思うのです。

簡単な事じゃないですよ、だって樹は喋らないんだモノ。

その代り、それに変わるシグナルを発している。

それに気付くための、日々の丹精。

読み取りたい!そう願い、そう努力する日々でもあります。

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理想と現実の話

今日、某SNSでお世話になっていたビンチョさんとお会いしました。

会った瞬間、いや正確に言えば、お電話を頂いた時に、楽しくお付き合いできるなって、思いました。

いつも理屈っぽい記事を書いていますが、私生活においては、ほぼインスピレーションを信じているわけで、

実際お会いしてみると、やはりといった具合で、わずか二時間程度でしたが、楽しい時間を過すことができました。

ビンチョさんとの会話の中で1つテーマになっていたのが、理想と現実の話です。

僕はどうやら「生き難い」人に映っていたようで(納得なのですが)、僕がおかしくなりやしないかと心配していただきました。感謝です。

そこで僕の理想と現実に対する考え方をここでもう一度いたしたいと考えています。

そうすることで、このブログもより有意義なものになると信ずるからです。

まず、このインターネットという世界に住まう「ちどり」という人間は、言うなれば、本来の某から、盆栽に対する心を抽出したもであり、その主張はあくまで理想に徹しているわけです。

それは、盆栽を趣味とする皆さんに、盆栽を楽しんでいただく以外の道理は無いという、単純な発想であり、

僕の個人的な盆栽の主張に触れるという事は、それだけで、盆栽を考えるという事になるし、主人公は僕ではなくて読み手である皆さんとその盆栽であるわけで、僕はその「調味料的存在」をちどり君に担ってもらっていただいているのです。

そういった思いですから、僕が食えてるとか食えてないとか、業界がどうとかこうとか言うのは、SNS時代から徹底して触れる事が無かったというわけです。

じゃぁ、現実はといえばどうかというと、必ずしもちどりの主張どおりに行っていないわけですね。

このあたりを人はギャップというでしょうか。葛藤というでしょうか。だれしもがここで悩むわけで、僕とて例外ではありません。

ただし、僕は理想が実現するとかしないとか、そんなことよりも、今ここにある現実を楽しく乗り切るためには、理想は持ちつづけたいと考えています。

だって考えてみると、悲しくなるじゃないですか。

「甘いな、もっと現実をみなさい」なんて、夢をあきらめたところで現実は変わらないし、僕がその現実を生きていくために、つらい、悲しいと思うか、いつか叶うかもしれない理想を思って楽しく思うかは、あくまで僕自身の感受性の問題じゃないですか。

結局のところ、この世界は僕の心の中にあると思えば、僕が変われば僕の目に映る世界は変わるわけですね。

僕の中にある大切な一本筋は、たとえ状況に応じて、現実をもっともらしく生きたとしても、しっかりと理想の中に息づいていれば、僕の精神は壊れないし、死なないのです。

ましてや、盆栽というあくまで趣味という世界にあって、職人である僕が理想をもって盆栽ライフを楽しまなくて、どうして愛好家さんたちが盆栽を楽しむ事が出来るでしょうか?

僕が、生活や業界の愚痴をこぼしたところで、はたして盆栽という素晴らしい趣味の素晴らしい魅力は増すことになるのでしょうか?

そういった理想のエッセンスを抽出して生まれたのが「ちどり」であるわけですね。

だからこそ、僕は現実といわれる社会において、たとえ僕自身が挫折と感じる状況に遭遇しても、僕は理想を失いそうになったことは一度もないし、かといって現実から逃避した事も一度もない。

それってば、その理想を持ちつづけることが、僕自身の現実を生き抜く力であり、すべてにおいての源泉であるからなのです。

僕の座右の銘は「死ぬまで生きる」です。

ならば、その理想においても、その理想が死ぬまで持ちつづけるでしょうし、挫折するまで夢をあきらめないでしょうし、ご飯が食べられなくなるまでご飯を食べる事でしょう。

仮に余命を宣告されても、人生を投げずに生を全うしたいし、そのときに実際発狂しても、そういったスタンスがあるという事が僕にとっての鎮静剤であることを信じています。

話は飛躍しましたが、僕は決して生き難い生き方を「苦」とは思ってないし、むしろ「楽」と思っています。

そしてこれからも精神が壊れるまでは壊れないという安易な発想で楽しく困難と付き合っていこうと思います。

みなさん、これからも面倒くさい男のややこしいブログでも読んで、悩んでくださいね。

それでは、また今度から盆栽の夢物語を語っていくのでよろしくお願いします。

最後になりますが、ビンチョさん、「柿安」の牛肉しぐれ煮、めっちゃおいしかったです!

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