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因果

四月の終わりですかね、園の物置に野良が子供を産んだのは。

野良ですからね、人に慣れてないもんで、いずれいなくなるって思っていたのよ。

甘かった。

あるんですね、育児放棄。

お客さんやうち等も出入りの多い場所の子供を運んでたんですよ、六匹。

そしたら、ママが人嫌いだもんで、こども置いていなくなっちまったい。あの白黒のオス猫と逃げちまったみたいさ。人間のエゴですかね。

はじめそんな事知らないから、ほっておいたのよ、みんなで。

夜になれば、かあちゃん帰ってきて、乳やってんだべさーって。

そしたら今日、もう衰弱はげしくなっちゃって、鉢置き場の隅で、小品盆栽の鉢の中で丸くなって、虫の息。

里親に電話しても、あくまで見つかるまでは自分たちが育てる事が前提。そりゃそうだ。そんな都合いいわけない。

しょうがないから保健所に電話したの。だって、盆栽屋さんってば、猫のおしっこ嫌うから、猫をかうってのはあまり聞かない話。このまま死をまつだけなら、保健所でのわずか数ヶ月に望みを託そうとしたの。

しってました?野良は野生だから、鳥獣保護かなんかで飼育を禁止されてるんだって。保健所もっていくと、すぐに殺処分なんだって。

誰かが捨てた捨て猫は二ヶ月ほどあずかるけど、捨て猫は預かれないんだって。

殺す事以外の選択肢がないってのは、ある意味それを決定しているのは、俺じゃね?

しかたない・・・。衰弱していくのをまって、あとは川にでも流して弔ってやるか・・・。

そういう考え。「にゃー!」って乳を求める野良の声。

でもそのとき、ずっと忘れていた記憶が思い出されたんです。

高校のとき、偶然見つけた死にかけの野良を、見なかったことにして去りゆく時、そのうちの一匹が最後の力を振り絞って、ずっと追っかけてきた事。

あの時以来、動物を安易に飼う事に非常に攻撃的になった。一人暮らしの寂しさって理由や、かわいそうだから避妊しないとか、ステータス代わりの流行の犬種とか・・・。

今思えば、自分のやった事を、そうやって他人のせいにして、ごまかしていたんだと思う。

僕は、このままでは、結局一番命を弄んでいるのは僕じゃないか?

さっきから一度でもこいつらの事考えていたのか?

死んだこいつらに対する自分自身への言い訳ばかりじゃないか?

そう思った。

たとえ、こいつらがもう助からないところまで衰弱していても、目の前で消えていく命に僕なりに出来る事はあるはずだと思った。

最期に、ミルクのいっぱいでも飲ましてやりたい!

その思いで、仕事中にもかかわらず動こうと思った。

そんで、平日なのに獣医の先輩に連絡して、細やかなケアの話を聞いて、奥さんにこういうわけだからナントカしたいって相談して、職人さんに無理言って時間作ってもらって・・・・。

それからだけど、どうなったかって言うと、

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とりあえず、動物病院につれていって、目の治療やら点滴やら色々やってもらいました。

六匹中、二匹は相当衰弱していて、今夜が山だそうです。判断が遅かった。

残りの四匹は一応元気です。よほど腹が減っていたのか、離乳食を与えたら、となりの仲間の耳まで喰らいつくほどでした。

餌は六時間おきで、おしりを刺激して、うんちを出してあげるのと、目薬を挿してあげるのが、当面の世話だそうです。

そんで、早速里親探しをはじめて、もしかしたら二件くらい決まりそうです。

親方も仕事から帰ってきて、うちじゃかえないけど、里親決まるまではちゃんと面倒見ようってことになりました。

僕らのやっている事が「正義」だなんていいません。

ただ、目の前で消えていく命に対して、何かしてあげたかっただけです。

それは、知らない国で沢山の人が死ぬ事よりも、もしかしたらずっとリアルな命だったかもしれません。

毎日保健所で死んでいく犬猫の事を思うと不憫でなりませんが、もしかしたら、その事よりココできえゆく小さな六つの魂のほうが、リアルだったのかもしれません。

もしかしたら、消えてしまうかもしれない二つの命のほうが、僕にとっての二人称の死なのかもしれません。

だからといって、高校時代に見殺しにした猫にたしして、償いになったなんてこれっぽっちも思ってない。

ただ、あの経験が、今回の行動のすべてだった事は確かで、僕にとっての生きた歴史になっているのも確かです。

里親探し、がんばります。

最後になれけど、今日ある客がいってました。

「盆栽ってペットと同じだよね、こんなに手間がかかるなんて思わなかった。」

それを聞いた職人さんが

「その木も誰かが丹精してきた命ですから、大切にしてあげてください。」

といいました。

そしたら、「いいよ、これ俺気に入ってないし。」

目の前で枯れゆく命。

盆栽とはなんぞや?

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コメント

>かわいそうだから避妊しないとか、ステータス代わりの流行の犬種とか・・・。

全くもって理解の範疇を超えてますよね。かわいそうだから避妊しないと言ってちゃんと飼えるなら素晴らしい事ですが、そういう事を言っていざ生まれれば捨ててきちゃう人たちがいますもんね。例えば自分の子供が妊娠して育てられないとして、後で捨てればイイから子供できちゃっても産めばいいから避妊なんかしなくていいよとかいうようなもんだと思うんです。
欧米ではペットショップがないだけマシだそうですが(でもブリーダーから買う事はできますが)。日本だけでも年間数十万も殺処分になってしまう命があるのになぜ買える場所があるのか、その為に交尾をさせて子を産ませるのか、その仕組み自体がおかしいと思うのですが芸能人を始めとしてそういう犬猫の値段と品種を自慢げに話す人がいるのには閉口してしまいます。赤ちゃんポストが今話題になっていますが、こういう事は最もモラルが問われる事ではないでしょうか。礼儀作法云々を言う前に考えてほしい問題ですね。

投稿: 夢湖 | 2007年5月16日 (水) 12時27分

存在に、代わりの存在は存在しない、と思います。。ね。

投稿: 広茂 | 2007年5月16日 (水) 14時46分

>夢湖さん
書き込みありがとうございます。

結局、衰弱した二匹は、昨日息をひきとりました。
せつないですね、たった3日だけの付き合いでした。

もっと早く助けてやれば、死なずにすんだのに、悔やんでも悔やみきれません。

僕は、世の中を正すなんて思っていません。世の中が間違っているとも言い切れません。僕が正しいとも思っていません。

ただすくなくとも、これからは自分が関わった命にたいして、誠実であろうと思います。

最近、ある映画監督さんのお話に老親(ろうしん)にたいして、「お世話じゃなくて、共生する」という言葉がありました。

ペットはぬいぐるみじゃなくて、盆栽はプラモデルじゃなくて、共に生きるパートナーであることを忘れないでいたいです。

僕が彼らから受け取る多くの想いもあると同時に、彼らも僕たちから、何か言葉では表現できないものを受け取っているという事。

飼い主と飼い猫という意味では、彼らは僕らに依存しているかもしれない。でも、僕たちも彼らの健気な姿に癒され救われていると思えば、立場は対等であるという事だと想います。

感謝の気持ちを忘れないようにしたいです。

>広茂さん
書き込みありがとうございます。

おそらく思うのですが、こうやって命のやりとりをする事で、その相手に自分の姿が見えることがあります

間違った意見かもしれないけど、何か存在がなくなるとき、自分自身の本来に気が付いて、どうしようもなショックを受ける事があったり。

もちろん同じ事は二度とは起きません。

だからこそ、そういった場面に遭遇してしまった時は、けっしていい加減な態度ではいけないのだなと、
今回は後悔してしまいました。

投稿: ちどり | 2007年5月16日 (水) 18時06分

>彼らも僕たちから、何か言葉では表現できないものを受け取っているという事。

まったくもってその通りですよね。
しかし自分が相手に何かをするとき人は「してあげている」という観点でものを見がちです。かく言う私もその一人です。一匹目の犬を何年も介護して、そしてなくなった時は自分に反省、後悔し、二匹目の犬が亡くなった時はありがとうの言葉ばかりが出てきました。そしてどちらもちどりさんの言うように、亡くなった時に自分がどうであったかイヤと言うほどわかりました。生きているときに癒してくれたり楽しませてくれただけでなく、最後の最後まで、そして死んでからも大きな事を教えてくれました。

してあげている、と思ってしまった時、自分も何かその対象にして貰ってるのでは、と立ち止まって考える事ができればギスギスしなくなりますね。

少しでも多くの人が命の重みを理解したり、大切に思ったりすることを願うばかりです。それはやがて人の優しさになり、優しさに触れることでまた人は優しくなり、その広がりが良い社会に繋がる事なのだと思います。

投稿: | 2007年5月17日 (木) 02時41分

今日、二匹、里親さんにもらわれていきました。

すごくうれしいです。
あと2匹、がんばります。

盆栽は枯らしてオボエル、っていいますが、

枯らすからオボエルんじゃなくて、枯らさないために考えるからオボエル訳です。

結果的に枯れたとしても、その時に悲しさや、悔しさ、申し訳なさがなければ、反省もなければ成長もありません。

この言葉を安易に使う人がいますが、枯らしてしまった人への励ましになろうとも、盆栽を始める人へのキッカケには決してならないと思います。

それは、猫も犬も人間も同じだとおもいます。

だから、何事もオボエテいく為には時間がかかるし、僕のようなケツの青い人間は、あくまでそういった多くの反省を繰り返した先人に学んで、僕も同じような反省を繰り返していかなければ、新しい反省の上には立てないと思っています。

命とのやりとりは、言い訳が聞かない真剣勝負ですから、特に学ぶ事は多いなと、実感しています。

投稿: ちどり | 2007年5月17日 (木) 20時00分

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