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器。

先日の天才と達人の話につづいて、人間の器の話をしたいと思います。

これは、人それぞれ反応は違うとおもいますが、それぞれの感覚で考えていただけたらいいなと、そう思うお話です。

まず、先日理学療法士の先輩とのお話で、「健康の器は人それぞれ違う。」という話になりました。

「当たり前じゃん。」そう思うかもしれませんが、お話を続けます。

要するに、人それぞれがもっている身体能力の器は既に胎児くらいの段階から決定されていくそうです。そして三歳くらいまでにその後の器の大きさがゆるぎないものになる。

こういった研究も今はされているそうですが、具体的な話は不案内なので省きます。

今回の話は、今更どうにもならない話をしたいのではありません。

ここでは、人それぞれ健康の器の大きさや深さはまるで違うという事実がある。ということなのです。

そこで以前はなしたように、僕は盆栽の仕事以外にも、体の使い方を考えないと、今のポテンシャルを発揮することはできません。

ところが、体の使い方を一切無視したような人が、僕より高いスタンダードを簡単にクリアしている事は、容易にあります。

これは、殆どの人がその体験として身近なものだと思います。

そこでお気づきかと思いますが、ある仕事を基準として、ほとんど無理の利かない体と、無理の利く体があるならば、身体的にその仕事に向くのは後者のほうであります。

冷静にその部分のみで判断するなら、僕は明らかに盆栽職人には不向きな体であるのは明らかです。

そこで何とかして健康の器を大きくしようと必死に色んな健康法に手を出したこともありましたし、色んな本を読み漁ったりもしました。

でも、結局はどれも挫折におわりました。

この経験を通して、僕が今現在わかったことは、

健康の器は決して大きくならない。そして歳と共にもろく小さくなっていくもの。その器から得体のしれない何かが溢れ出したときに、人は病に冒されるものだ。ということです。

これは暗い話でしょうか?

いいえ、そんな事はないのです。

この自覚がどれだけ僕にとって大事なことかわかりません。

この健康の器にたまっていく何かをすくって投げるのが、生活習慣のあらゆる改善だとおもいます。食や運動、ストレスなどの見直しがここに当てはまるのだと思います。

そして、健康の器に蓋をして、何かがあふれ出るのを一時的に食い止めるのが、薬だとおもうのです。

なぜそういえるかというと、

幼少のころに決定してしまう器が人それぞれ違う以上、人によってその健康法も微妙なさじ加減でかわってきます。

具体的にはある健康体操が、1日3回3セットがオーバーワークの人がいれば、まったく効き目の無い人もいる。

同じ人でも、器から溢れ出しそうなじょうたいで、3セットすると、簡単にあふれでてしまうし、器に何も入っていない状態なら、3セットユウユウこなしてしまう。

3セットが同じ分量で物体を増やすこともなければ、すくい出すこともない。ひとそれぞれが、すべて違うのです。

そして、薬の事。

これは盆栽にたとえていうなら、アブラムシを予防、駆除するのは農薬ですが、農薬によってアブラムシがつかない樹になる事はまずありません。

もし、途中で体質が大きく変化するなら、健康の器といっても、1つではなく、非常に沢山の要素が絡み合っているわけで、自分の予想していなかったある器に液体が満たされたという発想になるのです。

大人になってからアレルギーになるって言うのもこういう事だとおもいます。

だから、溢れ出す液体をすくう事が大前提でありますが、その勢いを一時に止めておく薬の効果も侮れません。

溢れ出す勢いが強いなら、自分ですくいきれる状態に持っていくまで、一時仮の貯水池に貯水する気持ちで薬をつかい、

徐々に薬の量を減らしていく発想でいます。

もちろん病気によっては進行が進むものもありますが、それでも自分ですくう行為をすれば、その進行はペースダウンしてくれます。

そして、ステロイドなんかの副作用の話でいうなら、溢れ出す部分をのこしたまま、薬を中止すれば、どうしても病は爆発してしまうのだと思っています。

薬が効かないのは、もちろん器の相性もありますが、効いていたものが効かなくなるのは、貯水していることを忘れて、さらに無理をして、貯水池を壊してしまうからだと思うのです。

僕は今、この発想にあり、もう一度、いろんな健康法を自分の器にあわせた取り入れかたをすることで、余計なストレスもないし、それなりの効果を実感できるようになりました。

もちろん日々の暮らしの中では、すくったり増えたりと、一長一短ですが、そうやって自分の体と対話するのは意外と面白いものだと気がつきました。

そして、話ははじめにもどりますが、健康の器が人それぞれ違う以上、自分の選んだ職業に自分が適していないという事実は変えられないとしても、

そういった弱い存在が、考えるからこそ、技術は洗練され、より生活が向上していく、そういった事が言えるのだと思います。

僕たちの先祖がもし自然界でも強い存在なら、今僕たちはこうして地球の王として君臨していなかったでしょう。

宇宙の器からすれば、なんてちっぽけな器なんでしょう。人間って。

見ると、結局自分の器の大きさを過信した人たちは、有り余るくらいのその器の中をなみなみとなぞの液体で満たしているではありませんか。

結局人間は最後、その溢れ出した液体によって、みんな死ねるんです。そういった意味では、死に方は千差万別ですが、死は平等かもしれないですね。

最後に、人間の器の話は、希望の話ということをお話します。

ここでは、器は健康だけでなく、人間のすべてにおける器ということで、述べさせてもらいます。

僕は才能も努力も、自分自身にもっている器というポテンシャルを最大限に発揮する事だと思っています。

要するに、僕が今からイチローになるという事は、ない物ねだりという事です。

だからといって、才能と達人の分量は、器の液体をすくい出す作業から始まるから、飽和した限界点は体に聞けるけど、僕はその大きさと深さを知ることは出来ないのです。

だから夢を持てるし、人間の生き方について、ひとりではどうにもならない器の容量も、ある誰かと共に生きれば、共有しあえると僕は信じています。

僕の尊敬する方の奥様は難治性の病をお持ちですが、映画監督として今までに6本の映画を撮ってきました。

僕の推察するところであり失礼かと存じますが、その偉業も、奥様と共に生きてきたその方や多くの人達によってお互いにその器のもつ可能性を発揮できたのだと思うのです。

僕のような青二才がいうのもなんですが、

もともと持っている才能も、多くの困難によって芽を押しつぶされる事は、すべての人が経験する事かもしれません。

だからこそ、例えば、誰かが足になり、目になり、口になることで、その器をいかんなく発揮できるのではないでしょうか?

そして、その器と1つになる事で、その人とかかわりをもった多くの人達は生きる勇気や、歓びを知るのではないでしょうか?

僕は、その方たちの作った映画を通じてそんな事を教わりました。

ある誰かが、自分の器の容量を嘆かず、その運命を背負いながら、力強く生きている姿に僕は感動して、涙を流します。

だって芸術ってそういうものでしょ?多分、たぶんだけど。

言い方はわるいけど、器は猿でもあるんだよ。

その器を受け入れる強い精神はやはり人間だからこそなんだよ。

それでは、その映画の紹介をさせていただきます↓

http://www.pao-jp.com/

僕が拝見させていただいたのは「老親」という映画です。

映画のシュチュエーションが母、祖母の印象とかさなり、とても考えさせていただいた作品でした。

もしみんさんも機会があれば、ぜひ鑑賞していただけたら嬉しいです。

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