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ヤマドーリ、ミショウ。

盆栽でいうところの天然素材というと、「山採り」っていうんですが、海外でもヤマドリってそのまま言葉になっています。

トショウ、シンパクなんてのも、通じるんです。もちろん向こうの愛好家さん限定ですが。

とうわけで、ヤマドリっていうと最初にイメージするのは、「人工臭さを感じさせないもの」、「高級品」、など良いイメージがあると思うのですが、

大体ヤマドリ品しかなければ、こういった観念が生まれてくる事もないわけで、ここに隠されているのは「実生、挿し木」といった、赤ちゃんの頃から人が丹精したものとの対比があると思います。

ですから、今回は「ヤマドリ」をもう少し突き詰めて考えていきたいと思います。

ヤマドリ品と言えば、特に松柏盆栽(松やヒノキの仲間)が扱われていますが、

今現存する名樹の殆どは、戦前に山から下ろされたものです。

厳しい環境で育った信じられない程複雑な幹骨は、数百年の歳月をかけて作られた、まさに自然の芸術であり、その圧倒的な存在感は畏敬すら感じます。

それらの素材は先人たちの技術によって、盆栽の型へと整姿され、今僕たちが見る事の出来る、得難い幹骨と、丹精された枝によって自然に生えていた古い樹から、盆栽の古樹へと変貌をとげているのです。

しかしながら、近年では盆栽全盛期の頃の乱獲(乱伐?)の影響で、ヤマドリの一級素材は殆ど手に入らなくなり、また取り締まりの強化によって、素材の山出しは禁じられている場所もあります。というか国定公園内からは小石一個も持ち出しちゃだめなのは既に万人の常識です。

なので、ヤマドリといえば今や新たに出てこないと言う意味でも貴重品と考えられています。

ただ、ここで1つ考えて欲しいのは、「やまどり」=「古くて、幹骨が人工で得難いもの」という固定観念が出来上がっているという事です。

これは、人によって考えは異なるでしょうが、僕はこの方程式は必ずしも成立しないと言いたいのです。

それは何故かと言うと、

はじめはヤマドリ品ぐらいしか、幹骨も古さも抜けているものがなかったのですが、今現在、愛好家さんたちの丹精によって、はじめら人の手によって仕立てられた盆栽の中にも、十分に古さも幹骨の個性も、ヤマドリ品に負けないものが現れるようになりました。

ですから、山から下ろした品物と見分けがつかないものも沢山あります。

盆栽は鉢に入ってからの丹精によって、その盆栽らしさをあらわしていくものです。

幹骨の複雑さは、確かに天性の素質といえますが、人間と一緒で、その後の努力(丹精)なくしては、本来の輝きを得る事ができないでしょう。

人の手によって作られたものが、仮にヤマドリ品と言うものに、素材の段階で劣っていようと、その後の丹精の積み重ね、命のリレーによって、その樹(たとえば実生や挿し木素材といえども)のその樹らしさ、個性が表出してくるのだと考えます。

というわけで、

その樹がヤマドリか、ミショウ畑育ちかなんてのは、その樹の価値を決定する肩書きにはなり得ないという事です。

その樹が凄いのは、その樹が凄いからであって、どこそこ生まれだから凄いじゃないんです。

盆栽は樹が鉢におさまった時点で、新たな「章」を演じる役者となるのです。

田舎育ちだろうが、都会生まれだろうが、その盆栽は愛好家さんの演出によって、様々な風景を共に描く役者になるのです。

僕は、ある意味では世間一般のスター級のヤマドリ名木に出会えば、盆栽が好きだから、当然しびれます。

でもそれを見て「ヤマドリ品だからすごいなー。」なんて思ったことは一度もありません。

だって畑育ちの盆栽を見ても、それと同じ感覚を得た事があるんですから。

ましてや、小品盆栽なんてのは殆どが実生挿し木素材です。ヤマドリ品じゃなきゃダメっていうなら、そもそも盆栽として成立しないジャンルです。

盆栽を見てしびれるのは、そこにある丹精の瞬間と、命を繋いできたことを全身で証明する表現力です。

山とか川とか、古いとか若いとか、そんな感覚で盆栽の順位が決まってしまうんなら、だれも実生、挿し木しないですよ。昨日も書いたけど。

そういう流れだから、未だに盗掘はなくならないし、どれほどの山が盆栽によって、荒らされ、どれほどの自然が壊れた事か。

ヨーロッパでは今まさにそういった事態が起きています。

同じ失敗を繰り返さないためにも、実生や挿し木を含めた、丹精の歴史こそ盆栽の真髄ということがもっと伝わってくれたらなと、願わずにいれません。

もう山から下りた樹は、また山にもどそうと思っても、おそらく活着するのは難しいでしょう。

そういった樹は、その運命を僕たちがしっかり受け止めて、出来る限り鉢の中で丁寧に育てていきたいと思います。

しかしながら、これ以上の山出しが、盆栽全体の価値、地位、社会性を向上させるものであるかは、疑問です。

最後にブルーハーツの歌から引用します。

「生まれたところや、皮膚や目の色で、一体この僕の何がわかるというのだろう?」(青空より)

その存在に、誇りを持て!!

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古さを書く。

盆栽をやっていると、よく耳にする言葉があります。

「盆栽は古さだよな。古くなくちゃ盆栽じゃないよ。」

僕はこの言葉に対しては、一部で賛成です。

一部で賛成かというからには、一部で反対という事になるのですが、それを今回はお話したいと思います。

まずは賛成の立場からいえば、

僕は何度も繰り返すように、盆栽は命のリレーであり、命をつなぐ過程で、盆栽やそれを育てる人間にはそれぞれのストーリー、「章」があり、それが複雑に絡み合って、愛好家としての個性が生まれてくるのだと考えています。

ですから、その繰り返しが積み重なる事によって、盆栽そのものも年齢を重ねるわけですから、形態的にも「古色」が増し、また長く盆栽で維持されてきたという希少性からも、「古さ」はそれだけで尊く重いものであると考えています。

何度も何度も言いますが、盆栽は丹精の歴史です。丹精の歴史の積み重ねが「古色」です。

もちろん、それまでには、人為的なミス、自然災害、時代の流行などによって、多くの盆栽が姿を消していきました。

しかしながら、そんな逆境の中を、多くの愛好家さんが様々な盆栽とともに、あらゆる役を担ったから、盆栽としての老樹が今ここに現存しているんです。

だから古樹には人をひきつける魅力があるのです。

そんで、反対の立場から意見をするならば、この「古い樹がよい」と言う発言あとに対照として、「この樹はまだ若いよな」と付け加える人がいます。

もちろんその通りのことだし、その発言自体は反論の余地無しですが、

例えば、国風展のような、長く盆栽として丹精されたものが出展の条件ならば、この物差しは非常に大事になってくるのだと思います。

けれども、何度も言うように、その時、その人、その盆栽で、担っていくステージがあるわけで、国風請負人であるなら、こういった厳しい意見も大事なのかもしれないですが、それが盆栽全体の価値を決める基準であるというならば、僕は正直悲しい。

確かに、今は大きな盆栽は殆ど流通がないから、どうしても小さな盆栽の方が、値段は相対的に高いわけだし、同じ古さでも、小さな樹のほうが数の希少性もあって、割高になるのは当然です。

でも、実生や挿し木を楽しんでいる人、剪定整姿の仕事が好きで、荒木を盆栽の型に持っていくのが好きな人、持ち崩された誰も見向きもしない盆栽を改作によって、表舞台に立たせてあげる人、日本文化のを尊重し、侘びさびの世界で盆栽を鑑賞する人、国風展のような大きな展示会で、愛好家としてのステータスに挑戦する人。

盆栽の時代に流されない価値は、それぞれの「章」の中で、それぞれが決める事なんだと思います。

だから僕はみなさんには、

まずは、値段や流行よりも、自分が目標とするスタイルを探す事をお薦めしたいです。

自分が「好き」ではじめたものだから、より本気にもなれるんだと思います。

そこで昨日の日記「好きは世代を越えて」でも書いたように、自分がやってみたいスタイルで楽しんでいる愛好家さんをモデルにすることはどうでしょう?

個性的なスタイルでマイストーリーを描いている愛好家さんは、実は沢山いるものです。

もちろん、幾人かのモデルさんから、自分なりのアレンジを加えても間違った選択だとは思いません。

昨日の繰り返しになりますが、そのスタイルが受け継がれることが、盆栽を媒体とした人間の心と心のリレーにもなるわけで、

だからこそ、今現在も実生を楽しむ人は沢山いますし、若い樹を丹精によって持ち込む事が好きな人もいなくならないわけです。

古い樹だけが価値というなら、とっくにみんな種まきなんてやめてますよ。

僕ははじめ、丹精の積み重ねはそれだけで価値といいました。

でもその丹精は今この瞬間の積み重ねだという事を忘れないで欲しい。

歴史は過去のもではなく、

この瞬間、生まれている事に気付くはずです。

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「好き」は、世代を越えて。

僕は以前から日記に書いているように、盆栽は年齢をより良く重ねる事ができる趣味だと考えています。

繰り返しになるかも知れませんが、盆栽は丹精によってその命を次の世代に託していくバトンであり、

例えば、それが実生であれば、新しい物語の始まりであり、古木になれば、多くの先人たちの想いや知恵の結晶ですから、それを丹精する人間と盆栽すべてにそれぞれの「章」が用意されていて、どれも決して欠く事のできない事実、歴史です。

だからこそ、ここで言いたいのは、「受け継ぐのは盆栽だけですか?」ということです。

僕は、盆栽と言うのは常に授かりものであると考えています。それは、自然からだけではなく、もちろん先人たちからの、と言う意味でもです。

盆栽を手に入れれば、先人たちはお役ごめんでしょうか?

例えば、亡くなった僕の祖父は、「実生盆栽は3代かけてつくる」と常々いっていました。

その想いは、特に家族である僕が、しっかり認識して継承していきたいですし、亡くなった祖父の精神的な遺産を受け継ぐ事で、僕自身もまた祖父に対する様々な想いが豊かに膨らんでくることを実感しているのです。

先人たちの夢は、盆栽と共にあり、決して持ち主(育て主という表現の方がしっくりします)が変わるからと言って、まったく切り離されたものだと考えたくないのです。なんだかそれじゃ悲しい。

それと同時に僕が実生をはじめる事で、僕と盆栽の新しい物語も始まっていますし、必ずしもひとりの人間に用意された「章」は1つではなく、様々な物語が複雑に絡み合って、その盆栽を趣味とする個人の物語が個性的に輝いてくるのだと思います。

しかし個性の発現は、内面からくるよりは、多くは尊敬する先人たちの生き方かから学んでいます。僕に限った話ではないと思っています。

尊敬する人、大好きな盆栽の型、そういったものに触れることで、より自分らしい盆栽ライフが創造されていくのではないでしょうか?

先日日記に登場した、映画製作会社の方は、年齢的には僕の倍以上はなれているのですが、数ヶ月に一度、小田急沿線沿いのとある駅前で、終電ぎりぎりまで盆栽や人生についてとことんお話を重ねさせていただいてます。

その方は、偶然訪れた僕の田舎のとある村で、僕の父の丹精している盆栽に出会ったのがキッカケで父と知り合い、僕はその恩恵にあやかって、このような機会を作って頂いているのですが、

僕はその方のお話がとても好きで、いつも帰りの満員の急行電車で、なんだか心が高揚してくるのを抑える事ができなくなります。

うれしいんですね。

盆栽という趣味を通じて、世代を越えた交流、純粋にうれしいのです

僕は盆栽をはじめたころ、学生時代の仲間に「年寄り相手で生気がすいとられちゃうよ。いつかミイラになっちゃうかもね」と愚痴をこぼしていました。

しかし、実家の祖母の葬式のときに、長い間実家に通ってくれてお客さんや父親との目頭が熱くなる交流を目の当たりにして(これもいずれ機会があったらお話させていただきます)盆栽の本当の魅力に気付かされ、

年齢を越えた、盆栽を「好き」な人との交流に憧れるようになりました。

それが今、あの世田谷の小さな焼肉屋の片隅で、鉄板よりも熱い盆栽談義が繰り広げられた事に、僕はとてもうれしさがこみ上げてきたのです。

命のリレーとは、盆栽そのもののリレーだけではなく、盆栽を媒体とした、人と人との心のリレーであればいいなと思います。

もちろん技術的に盆栽を長く生かす事は加えて大事な事で、その実際の現場をしっかりサポートするために僕たちは日々の研鑚に励んでいるわけです。

最後に、僕にじいさんがうちの祖母に当てた手紙を引用します。

「よく俺の盆栽人生についてきてくれた。こんど生まれ変わってもまた一緒になって、歌でも歌いながら楽しくらしましょう。」

以前にも紹介した事があったのですが、祖父がなくなったあと、遺品のなかから祖母が見つけて、大変喜んだそうです。

その祖母がなくなった葬儀で、またこの一文が詠まれることになりました。

これこそ、僕が伝えたい命のリレーの原点であると思っています。

ついでに、草遊びの経過です。流転でみれます

Ts390160 Ts390162 Ts390163 Yugao0727

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初夏にすくすく

六月のあたまに植えたじゃないですか、種。

最近すくすく育ってきたもんで、毎日の変化が楽しくて楽しくて。

もうそろそろ花芽もついてきたし、開花も間近なこの子達の記念撮影をしてみました。

Goya1Goyaこれはゴーヤです。こいつは旺盛で鉢の中でもグングン伸びます。

          

 

Yugao1

お次は夕顔、これは、もとの部分を葉刈りして、枝分かれを増やしました。まだまだボリュームが足りない感じですね。                                                                          

                                                                                                                                     Husenkazura1_1そんで風船かずらです。これは大懸崖に仕立てずに、吹流し風にしています。だって名前が「風船かずら」なんですもの。

どれも、葉っぱを青々とたたえた状態で、メインの花や実はもう少しお預けだけど、彼らのかもし出す独特の雰囲気は、決して実や花だけが尊いと言うわけでないという事を教えてくれます。

今までの繰り返しになりますが、これが盆栽かどうかなんて、野暮なことはいいません。

盆栽は自然の一部を切り取るのではありません。

景色の一部を切り取るといった「盆景」的配慮じゃなく、自然の中にあって、自然らしさを失うことなく、かつ、その景色の中で際立つ主人公になれるかどうかです。

自然のもつ「らしさ」から学び、その景色を印象づける主題を、盆上に表現するのではないでしょうか?

たとえ、吾妻山の根上がりの名木が五葉がなくなろうとも、たとえ自然の造形美といわれるシンパクが山から消えようとも、海辺の美しい黒松の並木がマツクイムシに侵されてすべて枯れ木にかわろうとも、

その時代に生まれた子供たちが、山や海で見る景色には、願わくば僕たちが繋いでいった命、その表現を、そこに見て欲しい。

丹精こそ盆栽の真髄だと、僕は今まで言ってきました。

しかし、そこに伝えたいメッセージがあるとするなら、それは紛れもなく表現ではないでしょうか?

僕の草遊びが、その意図を捉えきれているかどうかは疑問ですが、それよりも何よりもまず楽しいからやっている。といのが本音でしょうか。

写真、大きく流転でみれます。

追記 Goya5Goya6_1Goya4

                    

           

                        

     次の日の朝、開花です。

今日の夜、あまり下に垂れすぎたので、上に引き上げてみました。引き上げたのは、ゴーヤがツルを支えるために伸ばす触手みたいなのを利用しました。

頭の部分は、支えのために針金を曲げて、そこに巻き付けました。

葉が大きくなれば、針金は隠れてくれると思います。

まだまだ変わっていきますよ。むふふ。

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電話魔

お酒に酔って、駅からアパートまで帰る帰り道って、ものすごく寂しくないですか?

僕はこの寂しさに勝てません。必ず大学時代の仲間に電話してしまうんです。

思い出話や近況報告をしながら、寂しさから救ってもらっています。

最近、それで困ったことに、うっかりるねさんすで知り合った人に電話しそうになります。

僕が酔っ払っていい感じになるところを見られたくないと思いながら、盆栽のこと沢山はなしたいー!って衝動が、お酒の力で強力に引き起こされてしまうんです。

でも、いきなり酔っ払って電話したら、間違いなく引かれるのが分かるので、酔いの中、必死にこらえて帰ります。

なんど、あと受話器のボタンを押せばってところまで行った事か。

これからもこの葛藤はどうやらつづきそうです。

ぼくはバーチャルな世界を抜け出して、出来る事なら皆さんと盆栽について楽しく熱く話したいなって、そう思っているのでした。

しかしながら、お酒は怖いですね。

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