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ちどりのBonsai参考図書①

盆栽を始めたばかりの人(もちろんそうでない人も)は、いろんなアプローチで盆栽への興味を深めていくと思うんだけれど、

いきなり種をまく人もいれば、徹底的に知識を吸収してから始める人もいると思います。

どちらも盆栽をはじめてくれるんですから、僕は大歓迎なのですが、盆栽を知るにあたって、技術的な面や表面的なビジュアルの部分ではなくて、

この本を読むと「盆栽を考えさせられる本」と言うものを、少しずつでありますが、紹介していこうと思います。ちなみに不定期です。

第一回目は、宮崎学さんの「柿の木」(偕成社)です。

http://www.amazon.co.jp/dp/4037451107?tag=owletnet-22&camp=243&creative=1615&linkCode=as1&creativeASIN=4037451107&adid=1F38X833X6V8GFEH30PF&

ここに書いてあったレビューを引用させていただきます。

 
木が語る、木に語る, 2006/12/2

この本は2年間にわたり、一本の柿の木を写しつづけた記録である。一本の柿の木。その柿の木の静かな生命のいとなみ。日々うつりかわる天候。柿の木とかかわりながら生きる生き物。そして、この木の生い立ちと、長い年月にわたる人々の生活の変化とのかかわり。珍しい木でもない、樹齢数百年の巨木というわけでもない。どこにでもありそうな柿の木。しかし、気付いてみると、もはやどこにもない柿の木。柿の木は静かにそこに立って語りかけてくる。そこにじっと立ち、見つめてきた長い時の流れを柿の木とともに感じることが出来たとき、人々は忘れかけていた大切なことを思い出す。 」

この本は15分もあればすべて読みきってしまう本ですが、普段盆栽に愛情を注いでいる愛盆家さんが読んでくれたなら、

きっと今目の前にある盆栽が、一層愛しくなると信じています。

僕は今、そもそも盆栽とは「無くてよい」ものだと思っています。

鉢に入れて自然を楽しむなんてのは、実に人間本位な考えですし、本来ならこの本のような関係が、どこにでもあって欲しいと思うからです。

しかしながら今、それが失われてきた、或いは難しくなってきた状況で、自然と人間を繋ぐ極めてグレーな存在が盆栽なのかもしれません。

ぜひこの本を読んで、「今、僕たちにとっての盆栽とは?」という問いをそれぞれの胸に問い掛けて欲しいなと思っています。

そして、これから盆栽をはじめてみたい人にとっては、諸刃の剣かもしれません。

そのことも含めて、あとはご自身の手にとって頂きたいと思います。

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表と裏。

グレープフルーツムーン。

月がきれいだな。よく見ると、満月にはもう少しかな。

先日、僕の身近でどうしても受け入れられない嫌な事がありました。

「日記には偉そうな事書いておいて・・・」と言われても仕方ありません。

やな事があると、カッとなってしまうのは僕だけじゃないですが、このままだと、また僕の悪い癖(人間関係リセット病)が出て来そうになったので、

ハッとして、とりあえず深呼吸。そのあとママチャリで近くのスーパーに行って、ビール(もちろん発泡酒)を買ってきて、とりあえずグイッと飲んでみました。

どんな事でもそうですが、モノゴトって拒絶しても繰り返しだから、また同じ事がやってくる。その都度成長していない自分に自己嫌悪になる。

でもこれやってるとある時気がつくんですよね。「このままじゃ俺病気になるな。」って。

そんなわけで、心のストレッチ。

お酒で一呼吸置いて考えたのは、思い返してみれば、自分がどうしても受け入れられないものって、普段は自分自身が無意識に抑制しているものだったりするな-って思いました。

簡単な例として、みんなお金持ってる人や権力をもっている政治家なんかに凄い非難を集中させるけど、お金がなくてもいいっていう人いても、お金があったら困る人って例外を除いてそういないと思う。

みんな欲しいけど持ってないから、心のどこかで知らぬ間に羨ましがってるんだけど、逆にそれを実現している人を非難しているのかもしれない。

そういった目で見てみると、僕自身もそうかも知れないなっておもいました。

羨ましいという感情もそうだし、どこかに自分は道徳を守ってるみたいな「よい子ちゃん感情」があるから、それをはみ出した人が許せないとか。

というわけで、僕は思うのですが、例えば1人の人間としての「僕」がとりあえず世間的に真っ当でいられるのは、実はそういった僕の裏側の人格を持った人間がいてくれるからじゃないかなって気がするんです。

要するに僕を構成する人格が時たま別の人間として現れて、僕を困らせたりする事で、僕自身の「こうあるべき自分」が壊れずに均衡を保つ事が出来てるんだと思うんです。

だからそういう人間に僕がいいます。「くそったれ!ろくでなし!!」

そういう事で、その存在が、僕の許せない自分自身の内面を背負ってくれる。

酒癖の悪い人は嫌いですが、そういったおっさんがいてくれるおかげで、自分がそうしないで済むんだと思うんです。

なぜなら、僕の中にある酒癖の悪い自分が僕自身の抑制によって逃げ場を失い、ある日突然爆発する。

「どうせ憶えてないんだから、おっぱい揉ませてくれ!」ってね。

結局自分の受け入れられないものを、削ぎ落としていくと、知らない間に自分の足場まで失って、最後には自分も崖下に真っ逆さまって事になりかねない。

だからこっちとしては、本当に嫌いで、口からは悪口しか出てこないんだけど、それは本当は自分で、そいつを消す事は僕の体半分が消えてしまう事と同じだから、決して消せはしないもの。

それが正しいなんて野暮なことを言ってるんじゃなくて、そうやって考えれば多少心も柔軟にならねーかなって。そいつに優しくなるわけじゃないんだけどさ。

さらに考えをひろげれば、僕はタマタマその一部分では自分が表って自負しているだけで、人によってはそれが裏かもしれないし、沢山の要素が絡み合っているのだから、自分の中に沢山の表や裏が存在していても不思議じゃないなって思いました。

だからどうでしょう?

僕が誰かを嫌いになったという事は、その嫌いな人間に救われているという事実がそこにあって、僕が誰かに嫌われて、罵られたとしても、その相手が救われたって思うのは?

僕が僕自身を「自分はダメなヤツだ」って思ったとき、世の中の誰かが自殺しないですんで、誰かが「自分は最低だ」っていった時、僕はその人に救われているって思うのは?

だから人の悪口を言うのって悪くないし、人を嫌いになるのも悪くない。自己嫌悪も。そんで生きてる限り、嫌われても人の役にはたってる。

自分を殺すって事は、相手も殺す事だからね。

表と裏。月が昇れば、日が沈む。

海は広いな大きいな。

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別れの秋、向上の秋。

まだまだ残暑が厳しいですね。

日よけを外す時期も難しいんじゃないでしょうか。

ちなみに僕がいる園では、寒冷さは外しましたが、1日水やりの管理ができる環境なので、ベランダ愛盆家はそれぞれのタイミングに気をつけて欲しいと思います。

僕は残念ながら、台風10号の時に寒冷さを外したあとのぶり返しで、ベランダのヒノキッズを一本枯らしてしまいました。カラカラに乾かしてしまい、その後スーッと色が褪せてしまいました。油断大敵、本当に申し訳ないことをしました。

というわけで、これから少しずつ秋めいてくると、盆栽が急に具合を悪くすることがあります。

特に、夏場の影響が遅れてでてくる松やヒノキの類(松柏類)は、朝晩の冷え込みが始まる頃の、スーッとあっちの世界に旅立ってしまう事があるのです。特に古木でそういった事態が起こります。

盆栽の場合、一芽一枝が大事ですから、ちょっとでも枯れる事は、正直悲しいのが本音だと思います。

けれど、こればかりはどんなに的確に管理したと思っていても、出てしまう時は出てしまうもので、そういった事態を静かに「受け入れる」という事も、愛盆家には必要なのかもしれません。

ただし、すべてが生理的という事も出来ず、例えば水やりのミスで根腐れを起こしたり、病気(おもに五葉の葉フルイ病)、害虫(この時期は赤、黒、真パクなどに葉ダニがつく事があります)などは、日頃の管理で十分防げる事ですから、

もし樹が枯れた事態に遭遇したら、まず先に自分自身を疑ってみる事も愛盆力向上の秘訣かもしれません。

けれど、そこで嘆いていたのでは、消えていった命がうかばれません。

大事なのはその命から「何を学んだか?」という事です。

たとえ小さな痛みでも、その痛みを受け止めて、はじめて誰かに優しくなれる。

僕はそう信じています。

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彼女の夢、僕の夢。

先日、学生時代の仲間と酒を飲んできました。

たまたま僕の彼女も上京したので、みんなで将来の事や思い出話でのんびりとした時間を過ごしたのでした。

もちろん話の中で僕らの結婚の話にもなったのですが、それ以上に僕の彼女の夢の話が話題の中心になりました。

今回、彼女が僕の田舎で将来的に新規就農を考えており、そのセミナーが池袋であって、そこに参加するために上京したのでした。(僕に会いに来たのはついでだといっていました。)

正直こんな突拍子もない話、最初聞いたときは何考えてるんだか訳がわかりませんでした。

嫁が、独立起業!?

田舎の人間たちもみんな驚いていました。

ある日彼女は僕に言います。

「そこにチャンスがあるのに、失敗を恐れてチャレンジしないまま人生を終えたら、きっと後悔だけが残る。」

確かにそうだけど・・・。僕も相当悩みました。けれど、僕の尊敬する方は言います。

「人が99%無理だといっても、1%可能性があれば、そこを見る」と

そして「その1%を見て行けば、ある日2%になったり、50%に成ったりする事がある」とも。

そして、その方は実際にそういう考えで大きな仕事を達成してきました。

だから、僕はまず彼女の話にちゃんと耳を傾けることからはじめました。

すると、彼女の意見を頭ごなしに否定しないでしっかりと話を聞く中で、徐々に話の具体性に納得するようになってきました。

そして気がついた事は、「俺は彼女の夢を否定していたんじゃない。結局は自分のプライド、見栄を傷つけられたくないって思ってたんだ」と言うことです。

盆栽という職業でそりゃ彼女や家族を食べさせていけたら格好いいかもしれません。少なくとも僕は気持ちがいいです。

けれどみんなが聞きます「盆栽屋ってどうやって食べてるの?」

もちろん元々お金持ちの家もあるかもしれません。けれど、大概の人はちゃんと盆栽で食べてるんです。それが一般人の目から見て大変か楽かは別として。

僕だって、僕なりに盆栽で生活していきたい、って思っていますが、それが例えば「あいつは盆栽で食ってない。」とか、「嫁の稼ぎで食ってる」って言われるのがいやだから、どこかで反対していたと思うのです。

でもそれこそ男のエゴです。「男の甲斐性は、女性の居場所を作ってあげること」だとしたら、僕は遠く名古屋から北国に単身乗り込む女性の居場所を考えてあげなくちゃいけないなって、その時おもいました。

そこで話は戻りますが、飲んでる最中、仲間が「本当、○○のこと幸せにしてあげてよね!」って言われました。

僕はとっさに「僕は彼女の応援団の団長だから、彼女が生きやすいようにできる限りサポートするつもりだよ。」っていいました。

もちろん両親がすべてに賛成したわけではありません。十分衝突も考えられます。

でも、僕はどちらが正しいとかそんな事じゃなくて、僕が彼女の応援をする事で、ぼくも僕自身の事を応援されるし、親との衝突はよく言えば「対話」であり、本音でぶつかり合う事は決して悪ではないと信じています。

話せばわかるとかいいません。ただ、話さなければもっとわからないのは確かだと思いますから。

僕は自分に自信がないとか、そんな事を言いたいのじゃないのです。

ただ、大切な人の夢をサポートする事は、僕にとっては大事な事で、

例えば盆栽屋さんは、愛盆家たちの長い夢をサポートするのが仕事な訳ですから。

ただし最後に本音を言えば、毎日ビビッてます。

逆にいえば、それくらいの覚悟がなくて人の夢を後押しするなんて出来ないって事だと思います。

まだまだ彼女の話に耳を傾ける日々は続きそうです。

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待つ事って難しい。

例えば家族間で何かしらの問題があると、誰だってその解決に躍起になったりするものですが、

案外と気の知れたものだと思って安易に考えていると、思うように事が進まないどころか、だんだんと状況も悪くなってきて、気がついたら八方ふさがりみたいになったりするものです。

でも、こういう時って正解と言うか、これといった解決策みたいなものなんて無いのに、その時は周りが見えなくなっているから、必死にあの手この手に走ってしまって、状況すらしっかり把握出来ない事もあると思うのです。

僕も何度も、なんとか状況を変えたくて、あの手この手を尽くしてきた事がありますが、

例えば、面倒になった人間関係をあれこれ理由をつけてリセットしたり。

まぁ、過ぎたことを掘り返して、どうこう言いたいのじゃなくて、

そういったやり方だけでは乗り切れない状況は多々あるんだなって身に染みて思うようになりました。

将来のことを考えたりすると、あれもしたいこれもしたい、でも出来ないって、なんだかやたら焦ったり、何かに追い立てられているような気持ちになって、息が休まる事が無い。

だから、体を痛めて動かなくなった時の焦りは強烈だったと思う。

けれど、沢山の人に支えのおかげで仕事にもいけるし、以前の7割ぐらいはこなせている気がします。

僕の個人的な価値観の1つに、「今を変える特効薬は存在しない」と思っています。

もちろん、病気に対して、そういった薬はあると思うし、僕だって一目惚れくらいしたことがあります。

けど、そこに至るまでの様々な布石が無ければ、その瞬間は訪れないと思っているのです。

けどその瞬間を待たず、或いは努力しないで求めるから、上手くいかないことがあるんだと思います。

僕は「傍観者」にはなりたくないって、ずっと思っていました。今でもそう思っています。

けど、何も周りから見て動いているように見えることが、人生に対して積極的に生きていることじゃないようなのです。

ジッと何もしなかったり、何の意見もいわなかったり、傍から見て、こっちがイライラしたくなるような人が、

実は僕以上に内面では動いていたり、ずっと状況を見据えてタイミングを計っていたりして、驚く事がありました。

僕は水面をバシャバシャ叩いて騒いでいただけなんだなって、その時思ったのです。

どちらが状況を打破できるとか言う問題ではなくて、その人は少なくとも「待つ」という選択肢を持っているのです。

その後で、個人的な経験として、僕が現在の状況を5年ほど経過したことで、ある人とはじめて対話が出来て、とても嬉しかったことがあります。

「すぐに辞めて帰ってくると思っていたけど、以外と根性あるんだな」といってくれました。盆栽とはまったく関係のない話でしたが、どこで自分の経験が生きるかわからないなってシミジミ思いました。

だから、キッカケはその対話の日だったとしても、そこまでに至る経緯も、それからの事も含めて、点で物事が解決する事は無いって思います。

といいますか、誰だってそんなの分かっているといいたい事に、ようやく僕が気がついただけなんだと思いますが。

ただ、それが別のケースになると、気がつけばまた焦って待てない自分がいます。

状況に対して、そういうもんだっていう知識なんてのは、どんなに増えたって、あくまで選択の幅であって、未来を読むことには何の役にも立たないなって、ツクヅク思います。

自分が特効薬になるなんて、思い上がりとも採れなくない。

まずは自分の身の程を知って、大きく深呼吸。そして覚悟すること。

僕自身の器の掘り下げはまだ始まったばかりだし、今は待てない事を繰り返しても、この日記に立ち戻って、分身のchidoriくんに色々教えてもらうつもりです。

動かずして、動く。

とにかく待つ事って、ムズカシイ。

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ゴーヤ新発見。

Gym ゴーヤの収穫をしました。といっても、間口が10cm程度の鉢で育てましたので、手のひらサイズが限界だったようです。

これより先にもうひとつなったのですが、普通に大きくなると思っていて待っていたら、

手のひらサイズから、そのまま熟して黄色くなってしまったので、今回はその失敗もあって、この大きさの収穫になったわけです。

調理はいたってシンプルに野菜炒め風と、味噌汁に入れて食べたのですが、

意外な新発見をしました。

それはゴーヤなのに苦味や渋みだけじゃなくて、しっかりと甘くて美味しかったということです。「あ~まっ」っていう味覚がしっかりとつたわってくるといいますか。

僕的にはただ苦いだけのゴーヤが、こんなに甘いものだと知りませんでしたし、なんだか感動してしまったのです。

そこで僕なりに考察してみました。

そういえば、雪解け前に雪を掻き分けて収穫した、芽だし直後の「フキノトウ」も、天ぷらにしたら、苦味以上に甘味があった記憶があります。

そう考えると、早摘みゴーヤが甘いということなのか・・・?

もう1つ考えられる事は、非常に過酷な環境(少ない水と、小さな鉢)で育った事に加え、僅かな数の実に、養分が集中したという事も考えられなくもない。

以前、水を辛くしたトマトが甘くなるみたいな事を聞いた事があります。

あと、一本の柿の木になった柿のみを一個だけ残すと、非常に甘くなると言う話も聞いた事があります。

だとしたら、この盆栽風栽培の意外な副産物を発見できたという事ではないかと思います。

厳しい環境で酷暑を乗り越えた盆栽野菜(略して盆菜)が、そのエネルギーを凝縮させて作る、至極の逸品。

まさに太陽のもたらした、一握りの宝石。

かなり大袈裟な表現ですが、ゴーヤがこんだけ甘くなるって事は、トマトやナスなんて、いったいどうなっちまうだ?夏。

凝縮の美。

太陽は爆発だ!!

Gym2

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渋夜

hirokophoneさんのライブにいってきました。http://hirokophone.com/index.html

渋谷の渋谷Wasted Timeっていう、大人の雰囲気ただよう素敵なお店でお酒を頂きながらの生演奏、贅沢な時間を過ごしてきました。

hirokophoneさんのバンド結成でして、ベースとドラムが体に響いてきて、気持ちが盛り上がってくるし、彼女の歌声は力強くて、とても魅力的でした。

今回は、楽しい時間をありがとうございました。

余談ですが、渋谷駅で一緒にライブにいった仲間を待っているとき、偶然改札から出てきた女性が、どうみても僕が大学一年の時に一目惚れした女性でした。

10代の頃だから、当たって砕けろの猛アタックで見事に振られ、学校さぼって下北沢いったんだけど、田舎者だから結局「餃子の王将」で餃子食った思い出、

二年目からキャンパスが変わるから、最後に思い出として一度だけ横浜でデートしてくれた事が、僕にとって忘れられない思い出です。

それから、一度だけ先輩の電話番号聞く口実で電話して以来、もう連絡も一切とっていませんでした。

けど、左の頬の特徴的な泣きボクロ、風の噂で渋谷の病院で働いてるって聞いてたこと、間違いないって思います。

彼女が僕の前を通りかかったとき、僕は何気に目があって、「あっ!」って思ったんだけど、

その後声をかけようとすればできたけど、何だかそのままその瞬間は過ぎていきました。

僕も来年結婚するんですが、何だかその前に神様が僕の心の中の整理をつけてくれたのかなって思います。

元気で頑張っているんだ。よかった、よかった。

その後、仲間とその話になったら、そのコもそういった経験があるとの事で、偶然ってあるんですね。不思議なものです。

「ちゃんとしろよ」って言われた気がするっていってました。

僕は、その日家に帰って、どうしても消せないでいた彼女の携帯番号を消したのです。

素敵な思い出をありがとう、そしてさようなら、初恋の人。

そんな渋谷の夜でした。

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