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千の風のはなし

キリストさんのが生まれた日ですからね、日ごろ僕が考えていることを少々。

先日、婆ちゃんの三回忌で実家に帰ったとき、法事の後、お寺の住職さんが、説教をしてくれたんですが、

その中で、千の風の話がでてきました。

あの歌のように、千の風になって僕たちの魂が大きな空を吹き渡るという事は、生も死も、分け隔てなく、すべて阿弥陀様の手のひらの中で起こっている事で、

阿弥陀様は、生きていても、死んでいても僕たちを救ってくれるという事でした。

お寺のお坊さんが、お墓の中に故人は眠ってないっていうのも、面白いなっておもいます。

だから墓でご先祖様に手をあわせても、そこにいないし、ご先祖様はもうとっくに阿弥陀様と1つになったというのです。

なるほど、おじいさんはいないのです。あるのは、ただ吹く風のみ。

死後の世界とか、天国とか地獄とか、そんな事より、

死んだら死んだまんま、ただ風になる。

その風が山を削り、その土が川に落ち、その水を人が飲み、また新しい人になる。

すべては阿弥陀様の手の中の出来事。

僕は成仏ってのが、こんな事だったら素敵だなって思います。

子供の頃僕のバイブルだった「世界の不思議図鑑」に、風葬とかで、高い山の天辺で、死んだ人をそのまんま置いて、とりの餌にするってのがあったけど、その頃から言葉に出来ないけど「かっこいい」って思っていたのも、今となれば納得がいきます。

死んだ後、鳥に体を捧げるなんて、何だかロマンチックです。

焼かれて狭い壷に押し込められて、暗い墓下に収められるなんてイメージより、はるかに自由な印象を持ちます。

そこにあるのは餌となった僕がいた体。僕はそこにいません。

千の風っぽいし、「コンドルは飛んでゆく」が似あいそうです。

でも、これってば生きてる僕のイメージだから、死んだ後死体がどうなっても文句も言えないんですが。

最近スピリチュアルが流行ってますね。江原さんとかも信じる信じないという事になりがちですが、

僕の考えは、その人の心が救われるのなら、本当だと思います。

あの人達が実際に見えていようが、いまいが、愛する人を無くして傷心しきった人達が、その言葉でまた生きることが出来るのなら、その部分をみれば、本当なのだと思うのです。

しかし、その逆に最近の霊感商法や、ナンチャラ占術のように、不安を煽るようなものは、僕は信じてません。

それが実際に当たって、身の回りに不幸が起こるとしても、それを恐れて振回される人生に、生き甲斐もないし、自分に責任がもてなくなるだけです。

それよか、人は必ず最後は死ねるってことに気が付いて、その日がくるまで、たまにそのことを考えながら、ただ一生懸命生きることのほうが、やるべきことなんだと思います。

だって僕たちがいるのは、過去でも未来でもなくて「いま」なのですから。

そりゃ僕だって貧乏したくないし、美味しいものたべて、オシャレな眼鏡かけて、物欲にみたされたいですよ。

そういう目標で生きてますし。

痛いの嫌だし、弱音ばかり吐くし、世の中に甘えて生きてますよ。

何より、これっぽっちも死にたくない。

でも、「死」についてたまに考えちゃうし、逆にいえばその「煽り」に振回されて生きるくらいなら、格好悪くても、そういう自分をしっかり受け入れて生きていきたいって事なのです。

らいく・あ・ろーりんぐすとーん。

そして、僕は宗教的なものは、僕自身の心の問題であって、他人に押し付けるものではないと考えています。

布教みたいなものがないと広まらない神様なんて、信じません。

だって、仮にすべて何かしらの手のひらの中の出来事なら、すべての人に共通するものでなくちゃならないものが、

なんで戦争やテロまで起こすくらいに違うものになってるの?て思うからです。

だから「わびさび」も「モダン」も、僕は知らない。西も東も関係ない。

僕がいて、あなたがいる、風が吹いて、光がまぶしくて、雪がふって、鳥がさえずり、星が輝く。

ただそれだけ。

すべてはパンチパーマのおばさんの手のひらの中。

ちなみに左のバーのBornsaiな人々のひとり、腰越広茂さんのサイトの中に、2006年の詩作品の1つ「盆栽する私」があります。

これは僕が無理言って広茂さんに作ってもらったものなのですが、僕の好きな詩の1つでもあります。ぜひ読んでみてください。↓

http://hion_k.at.infoseek.co.jp/

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太陽さん、おやすみなさい。

ここ最近の冷え込みで、盆栽たちも冬眠の時期を迎えました。

先日、寒さ対策で盆栽を小屋にとりこんでいたら、お客さんに「太陽にあたらなくて平気なの?」って質問されました。

答えは、「平気」です。

そんな事いったら、冬山の雪の下に埋まった木々や樹氷におおわれた大木たちはみんな枯れてしまいます。

それに、葉っぱの落ちた雑木たちも、落葉の時に冬ごもりに必要な栄養はみんな葉っぱから頂いているので、冬に日にあたらなくても、

それが原因で枯れる事は、盆栽に限ってはまずありません。

もちろんあたらなくても平気であって、あたっていても当然平気です。

それよか気をつけて欲しいのは、小さな鉢の中でわずかな土に覆われているだけの盆栽たちは寒さに弱いものです。

樹種などによって若干の例外はあっても、特にミニ盆栽の類は冬の保護は欠かせません。

特に真冬の乾燥した冷たい空気は、冬芽を傷めたりするので、最低風よけくらいはしてあげないと可愛そうです。

僕のベランダの予備校生たちは、今年はこんな感じで寒さ対策しています。

Ts390339 ホームセンターで買ってきた育苗苗に100均の竹ひごを使って、ミニビニルハウスを作りました。

こん中に薄く水を張ってあげて、湿度を保つだけで、寒さと乾燥から相当守れるものです。

けれど、凍りつくような寒さの時は、夜だけ玄関に取り込んだり、僕のベランダなら、園芸用のミニビニルハウスがあるので、その中に入れて、二重の対策をしてあげると安心です。

ちなみに、冬眠中の管理で一番多い失敗は水切れです。

乾かないと思って、何日もほったらかしにして、春先に芽が動かないという失敗は誰しも経験するものです。

水やりは毎日観察して、乾いたらあげるのがいいと思います。それと、水をやらない日でも、霧吹きくらいは日に何度かあげてやると樹が喜びます。

管理中は、暖かい部屋に置かず、低温で凍らない程度の場所を選んでください。

理由は、冬眠なのですから、暖かいところに置くと、樹の生理的にアンバランスになってしまうでしょ。

暖かい春に、樹が目覚める頃まで、しっかり冬休みさせてあげてください。

ま、冬より春の目覚めのほうが、管理は難しいのですが、その話は冬を乗り切ってからする事にしますね。

では、太陽さん、また春に会いましょう。

おやすみ。

補足です。

簡単ビニルハウスも、天気のいい日にお日様の元に置くと、思ったより中が高温になることがあります。

その場合日陰に移動するか、日中に、頭を少し空けて、風だけ当たらないようにしてください。

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ぎりぎり南天パラダイス。

Ng 田舎の庭のイイギリの実が”たわわ”に実りました。

うちの田舎の方では案外めずらしくて、わざわざこの樹を観に来る人がいたりします。

そして、盆栽の中では、「南天ギリ」という名称で親しまれています。

実は初め、鳥たちに見向きもされませんが、ウメモドキやムラサキシキブなんかの実も食べ尽くされ、いよいよ食べるものがなくなると、この一本がわずか1日であっという間に食べられてしまうのです。

そのころになると、周りの景色も銀世界に変わり、真っ白の中の真っ赤な鈴なりの実が、とても印象的な風景をかもしだしてくれます。

この樹と、その他に小高い丘の上にある松畑にもイイギリの大木が2本あり、真っ白な中、遠くからでも赤い灯りが良く見えて綺麗なのです。

いずれも僕がまだ生まれるより前に家の人が植えた樹が成長したものです。

それでなくとも、この樹は成長が速くてあっという間に大きくなりますが。

ちなみにこの樹は雌雄異株で、種を蒔いても殆ど雄木です。

よく「桐」の木と名前が混同してしまいますが、まったく別物の樹です。枝ぶりが似てなくもないですが、桐の実は地味で硬く、花も淡い紫色で、鈴なりでなくて、上向きに小さな花が密集して咲きます。

今いる園の目の前に「桐」の樹があって、落ち葉がえらい手間でした。

南天ギリは枝ぶりが粗いので、小さな作りには向いていません。

大きな葉っぱ、白くおおらかな幹や枝、鈴なりのタワワな実。

”らしさ”ってやつをよく考えて盆栽を仕立てていきたいものです。

写真、左の流転でみれます

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メリ盆。

K 今日、クリスマス用のライトをデコレーションしました。

盆栽園に、光り輝くイルミネーションの登場です。

いやー、年末ですね。今年も早かった。

なんで一年365日あるのに、12月に色んなことが詰まってしまうのかいつも不思議です。

ちなみに僕は4人兄弟の末っ子だから、クリスマスらしきイベントは子供の頃やった記憶がありません。(そもそも我が家にはそういったイベントがなかったと思われる)

サンタがプレゼントくれるなんて物心つくまで知りませんでした。

その日は毎年「ドリフ大爆笑」をみる日と僕は位置付けていましたから。

でも、身近な子供たちの興奮度ったら、凄いね。

いや、ほんとこれくらい盛り上がる日なんだよ、実際。

ぼくも、ドリフ的にハイテンションな時間を過ごしていましたが、大学のころサークルの仲間たちと盛り上がったクリスマスで、

これだよね、クリスマスって、と思いました。

付き合って6年にもなる彼女と一度もクリスマスを過ごした事がないというのも、非常に痛い部分ですが、

それでもクリスマスはお祭りでしょ。

余談ですが、某雑誌に僕の名前が載りました。名前と年齢。

ミクロな一歩。

そうそう、電話帳じゃないからね。

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さよなら盆栽論。

ここしばらく仕事を続けているとき、ふと思うことは、

当たり前の事だけれど、この仕事に対して、もっと遥かに上があるなっていう実感です。

もちろんそれは感覚的なことだけじゃなくて、技術的なこともふくめてなのです。

もっとずっと樹に負担をかけずに針金を巻けるとか、水をあげるタイミングの難しさとか。

そういった仕事を見れるという事は、出来る出来ないの結果は別として、「目指せる」わけで、

すると自分が今いる場所が見えてきて、

少なくとも盆栽について語れるポジションにいないとハッキリ気がつくわけです。

そんで目指す部分も盆栽評論家とか、盆栽史家みたいな事じゃなくて、ちゃんと樹を作れる人になりたくて、

そうなるとまだまだ時間はかかることがわかってきたのです。

遅すぎです。

ここではやくも匙を投げるようですが、

飾りとか、スタイルとか、わびさびとかになったら僕はもうお手上げです。

国宝のお茶碗みたって、茶碗の良さなんて使ってみないとわかんないじゃんとか思ってしまうし。

盆栽鉢だって、植栽してみなきゃ使いやすさも含めて、その良さなんてわかんないし、その逆もそう。

未だに盆栽よりも自然の樹木のほうが好きだし。

そもそも僕個人としては盆栽と和って別だと思ってるし。

それで○○盆栽っていうのに抵抗ないし

だから僕の仕事が将来、どういうスタイルに限らず、鉢の上に植えられた丹精された樹木を作れるという事ができるよう努力したいなと思います。

だから盆栽とは?何て僕の仕事じゃなくて、そんなものは僕たち作り手が育てた樹を好きな鉢に植えて、好きな場所に好きなように飾った人が、好きな理屈をくっ付ければ良いわけで、

だからこそ僕がこだわりたいのは、すべての始まり「実生」と、スタイルを問わない命のリレーなのです。

目の前にある実生苗を見てわざわざ難しい本を読まなくちゃ、その実生苗の素晴らしさがわからないなんて、ばかばかしい話で、

見れば言葉以上の感動が必ずあると思うし、それを感じてくれればいいと思います。

というわけで、さよなら盆栽論。

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