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TVのDVDお譲りします。

今日、記者の方が、先日の放送のDVDを持ってきてくれました。

県外の方などで、今回の放送を見れなかった方々のなかで、見ていただける方がいれば、ぜひこのDVDを送らせていただきたいと、思っています。

ご希望の方は、僕のアドレスにメールください。

よろしくお願いします。

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TV出ました。

19日のTUFのNEWS-fで、うちの親父が特集されました。

その中で、日暮しの松に会いに行くシーンがありましたが、そちらのほうは一日がかりの撮影でして、そのあたりをピックアップしてみたいなと思います。

当日は、前日の嵐のような天気が嘘のような穏やかな青空が広がりました。

ところが、スカイラインは路面が凍結してしまい、スタットレスにもう一度履き替えて浄土平を目指すことになりました。

浄土平の駐車場を出発したのは9時半。日暮の松までは所要時間2時間の予定です。

登山コースはまだ沢山の積雪があり、雪の上を歩いて登る場所もありました。

Dsc02202 奥に見えるのは高山。右に見えるのは蓬莱山。

ここは酸ヶ平の山小屋からの写真です。

ちなみにメンバーは親父と記者さん、カメラマンさん、僕です。

ここからは、一切経の左、平石山を目指します。

Dsc02211 あの山の向こうに、「日暮し」が待っています。

Dsc022161 Dsc022152

その途中にあった根上がりの五葉松の舎利幹です。

地面から引き剥がしたような状態でそのまま形をとどめています。

「死に様=生き様」です。

Dsc02228 平石山をくだり、アオモリトドマツの森に入る手前です。

正直何度もここを訪れたことがなければ、この先この森に足を進めるのは怖いです。

日暮しの松発見当時から比べて、トドマツが生育したため、日暮しの松は、森の外から確認することが出来ません。

ここからは、親父の勘だけが頼りです。

Dsc022571_2 Dsc022542

トドマツの林を100mほど下ると、ぽっかりとトドマツの林が途切れる場所があります。

そこが、推定樹齢800年以上の老松のすみかでした。

今回は、4メートル近くが雪に埋まっていて、樹冠部だけが顔を覗かせていました。

この姿は、一切人の手が加わっていない、自然のままの姿です。

Dsc022521 写真ではわかりずらいのですが、この樹はとてもコケ順(足元から、天辺まで、徐々に細くなっていくこと。一本筋で通っているものがよりよいとされています)が良く、いくつもの頭が立っているようなことは無く、天辺まで筋が綺麗に通っていました。

Dsc022433 樹冠部近くといっても、その古さは圧倒的でした。

五葉松の古木を色々見てきても、この古木感はまず見れません。

枝先まで、肌が荒れていました。

Dsc022501 雪ノ下には、無数のジンがある幹が埋まっています。

今回は見ることが出来ずに残念でしたが、かえってまず見ることの出来ない樹冠部を間近でみれたので、良かったです。

Dsc022631 ジンの1つです。

こういったジンの一つ一つも、大切なお手本です。Dsc02232

日暮しを眺めながら、昼飯です。

この頃時間は12時をまわっていました。

このあと、一切経へと引き返しました。

Dsc02268 途中にある松の群生地です。

みんな吹流しになっていて、山に向かって上に枝が並んでいます。

Dsc02265 五葉松の実生苗です。

20センチにも満たないこの樹でも、その樹齢は思いもよらないくらい重ねているものです。

Dsc022735 この根上がり?も、先はすべて枯れていますが、元の部分は生きています。

Dsc022726 たてに見るとその姿がわかります。

はじめ芽が出たのは下の部分で、

長い年月をかけて、少しずつ先端に生きている部分が移動してきた結果だと思います。

Dsc02281 一切経の山頂に到着です。

久しぶりの山頂は眺めがよかったー。

Dsc02315 小富士の火口を見下ろしてみました。

これほどの噴火ってのは、想像すると怖いですね。

Dsc022847 一切経から、五色沼を眺めました。

「魔女の瞳」という別称があるだけあって、吸い込まれそうな青に、ぞっとする感覚を憶えました。

9 一切経の山頂近くにある根上がりです。

左右は20メートルくらいあるでしょうか。これも凄い迫力でした。

12 福島市街地に向かって、ダイブしています。

2000めーとる近い標高から、もろに強烈な風を受けていることが、この景色からもわかると思います。

11 一切経をくっだて来る途中の根上がりです。

数本の根と、太い幹ががっちりと大地に根を張っていました。

Dsc02318 こういった根上がりがいたるとことにあります。

足場はとても悪いため、よそ見しながらの登山はとても危険でした。

しかしながら、どれもこれも非常に勉強になる姿をしています。

Dsc02321 前ダイテンを正面にカマヌマへ続くサワをとりました。

いたるところに松が生えています。

これほどの厳しい環境でも、次の未来へとリレーは続いているのです。

14 これは、日暮の松の3幹時代の写真です。

今回顔を出していたのは、右の親幹だけです。

この当時と比べると、より樹幹部の古さが増していると思われます。

残念ながら、子供二本は、厳しい環境のために枯れてしまいました。

親幹も、大分弱ってきており、幹自体も斜面側に傾き始めて、近い将来の倒木も免れることは出来ないと思います。

今回の登山について、僕なりの感想を述べるとすると、

こういった山の自然が作った姿をみると、心がワクワクしてきます。

僕らが作る表現で、この本物に出来るだけ近づけるような、欲を言えばそれ以上のワクワク、ドキドキする気持ちを、見る人に与えられるようになりたいなと思いました。

そのためには、この自然の姿をお手本に、もっともっとしなければいけないと、身を引き締める思いでした。

それと、少し話しは飛躍しますが、この今は誰もくることの無い深山で、ひっそりと最後の時をただ待つこの老松の生き様に、僕はとても感動したし、うらやましく思えました。

それは僕たち人間と違って、自由に死ねるということかもしれません。

実は、TV放送の1時間前に14歳の愛犬が亡くなりました。寿命です。

死ぬ間際まで、自分で起き上がってトイレもしていたし、散歩もしました。最後は僕たち家族の前で静かに息を引き取りました。

そのあと、親父と二人で裏山に穴を掘って埋けたのですが、僕は頭の中で、

「僕ら人間のように、死んでも生きてる人間の段取りで中々死なせてくれないし、ましてお墓の下にはいっても、土に返ることはできないんだよな。それに比べてこいつは、死んですぐに土に戻れるなんて、なんて自由で自然なんだろう。」

もちろん僕の身勝手な解釈だとは思います。

それと同じ事を数日前、僕は、吾妻の山中で考えていました。

「これほどの名木が、ほとんど世の中の人の目にも触れず、静かに死んでいく。体中に傷を背負い、トドマツに日を奪われても尚、ただ自分の生まれた場所で、静かにそのときを待っている。なんて自由で自然な姿なんだろう。」

松の体に刻まれた無数の傷は、僕たちで言うところの生き様そのものです。

苦労に苦労を重ね、包み隠さずすべてをさらけ出し、それでもただ死にゆく日まで静かに行き続けるその姿に、僕たち若い世代も感動するのです。

何も僕たちの人生の師は、人間に限ったことではないと思います。

自然っていうのは、人間にはどうすることも出来ないことを言うんです。

この老松も、うちのワンちゃんも、僕たちも共通する自然は生まれて死ぬことです。

このどうすることも出来ない運命、奇跡を、僕たちはすべてのものから学べるものなのです。

今回の登山は、本当に勉強になりました。

こういった機会を作っていただいた、TUFの渡辺さんには本当に感謝します。そしてお疲れ様でした。

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香りの女王「ほう」

五月になるとぼんさいや「あべ」の庭のシンボルツリー「ホウノキ」の存在感が一層増し始めます。

Dsc02179 庭の中央に植えてある、あずまや作りの木が、ホウノキです。

福島では里山に普通に生える木なのですが、自生しているものは、ぐんぐんと伸びて、大きいものは高さ30メートルを超えるものもあります。

うちの庭のほうは、芯を止めて、横に伸びる枝を残しながら仕立てていったもので、

庭のど真ん中にホウがあること事態驚く人もいますし、こういった仕立て方をしているのは、大変珍しく遊びに来られるみなさんの目をたのしませてくれます。

このホウノキの一番の見所は、30センチ近くなる大輪の花です。

Dsc02174 この大きな花の存在感はすごいですよー。

今年は去年大分枝を剪定したので、10輪位ですが、去年は30以上の白い大輪が咲き誇りました。

そして、この花はただでかいだけではありません。

この花から放たれる濃厚な香りが、庭中に漂うのです。

なんていうか、「クラッ」としてしまう色っぽい香りです。

この香りがすると、ぼんさいや「あべ」も夏の始まりを予感するのです。

Dsc02172 盆栽を眺めていると、頭上から香りが注いできます。

Dsc02169 暑い日差しの中でも、この木の下は天然の日よけで、とても涼しいです。

もう少しすると、1度葉っぱをすべてとってあげて、枝数を増やします。

そうすると、すす病があまり出ないようです。

ぼんさいや「あべ」にお越しの際は、どうぞこの木の下で一休みしてください。

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テレビにでます。

5月19日、6時5分、TUFのTHE NEWS-fでうちの親父の特集が放送されます。

福島でぼんさいやさんを営むうちの親父のことを掘り下げて取材した特集です。

時間にして8分くらいだそうです。

長いです。

具体的には、仕事風景や、講習会の様子、棚場の盆栽も放送されると思います。

そして、吾妻山に登って、うちのお爺さんが「盆栽の本当のお手本」といった日暮しの松を見てきます。

今は枯死寸前の名木との出会いが、今回の特集のメインになると思います。

僕も少しでます。

というわけで、是非県内の人は番組の放送を拝見して欲しいと思います。

あとは、19日に予定どおり放送できることを願うだけですね。

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米栂原生林を歩く。

先月の頭ごろから、吾妻山のスカイラインが開通になりました。

吾妻小富士付近はまだまだ雪が多く、鳥子平あたりは雪壁の間を走るラインになるのですが、

昼下がり3時過ぎごろ仕事の合間を縫って、チョコッと山に行ってきました。

今回は、その雪が特に多い箇所の雪の上を歩きながら、米栂の古木が立ち並ぶ森の中を歩いてきました。

Dsc02100

ここの雪壁は、八甲田や八幡平に比べれば、赤ちゃんみたいなものです。

それゆえ今の時期に原生林の中を歩くことも可能です。

Dsc020811 鳥子平の入り口(雪でわからなくなってます)を通り抜けてはじめのカーブにある斜幹の米栂が、原生林の入り口です。

Dsc020841 雪の壁をよじ登るとすぐに迎えてくれるのが、双幹の古木です。

端整な姿で、まさに盆栽のお手本といえる名木です。

親の頭の部分が、やたらこんもりしているのは、石化といって、病気の一種で、枝がやたら細かくなったものです。

Dsc020861 米栂の天然のジンです。

これも、盆栽作りのお手本になります。

つるつるに尖ったジンや、バッサリ綺麗に切り落とした枝はどこにもありません。

Dsc020901 米栂の枯れ木です。

こういった枯れ木は、枝振りが見えるのでとても勉強になります。

よく盆栽では、ジンが沢山付いていると、傷が見苦しいとか、ジンが少ないほうが価値があるといわれますが、

ぼんさいや「あべ」では、吾妻の自然をモチーフに盆栽を仕立てていますから、こういった傷だらけの幹こそ、樹の古さを演出するには欠かせない表現だと考えています。

それにしても、この樹の生き様が、その傷に見て取れます。

僕たち人間も、身も心も沢山辛い思いをして、傷つきながら生きることで、個性的になっていくのかもしれませんね。

Dsc020881 こういった枯れ木もあります。

なんだかお稲荷さんみたいですね。

自然がつくる表現は、いつも人知を凌駕します。

どうしてこんな姿になったのだろうと考えることの面白さ。

そして、どうしてこの樹とめぐり合えたのだろうという偶然の不思議。

自然を表現するということは、こういった不思議を、見る人に感じてもらうことなのかもしれません。

Dsc020871 枝が、雪に押しつぶされることで、下方に下げられます。

盆栽で言うところの枝が下がるというのは、こうした自然の中で起こる偶然を、僕たちが代わりに行っているということなのです。

Dsc020891 この樹はクロベヒノキの古木です。

先ほどの条件のまま枝が枯れると、こういった面白いジンになってしまいます。

こういった枝はをみると、「轟」という蝦夷松の盆栽の枯れた右の枝を連想します。

それにしても雪の重みは計り知れないですね。

Dsc020951 「枯れる!枯れない!枯れる!枯れない!」

そんな繰り返しが、複雑な形のジンを作り出したのでしょうか。

植物の世界では、一本の樹の中で、生きることと死ぬことが同時に起きているかのようです。

それにしてもグロテスクですね。

Dsc02099 米栂の原生林の中には、そのほかに、クロベ、トドマツなんかも混ざっていて、どれも、一筋縄で育ってきてない苦労人ばかりなのですが、

わずかながら、吾妻五葉松もまざっています。

もともと五葉松の自生地だったのでしょうか、残された五葉松は近くの自生地でも中々見れないような大木、古木です。

この樹も、五葉松の中でも特に根元は太いと思われます。

根元から2メートル近く積もった雪の上でも、幹周りは大人が三人手を回しても足りないほどでした。

左に張り出した枝ですら、かなりの太さでした。

屋久島で見た屋久杉の枝を思い出します。

というわけで、吾妻山の中には、まだまだ紹介しきれないほどの自然の景色があります。

吾妻山の厳しい環境が作るワイルドな表現は、本当に盆栽のお手本になります。

ところで、僕がいつも考えるのは「自然」は一体なんだろう?ということです。

それは、どういった条件でこういう形が出来たとかいう科学的なことではなくて、

なぜ僕は、この景色を見ると、決して他では感じることの出来ない感覚が沸いてくるのだろう?ということです。

なぜ、こんなにグロテスクで荒々しくて、イタイタしいこの木々たちを見ると、心の底からとても透き通った爽やかな風が、僕の血液を流れていくのだろう?

なぜ自然なのだろう?でも、その自然とは一体なんのだろう?

考えれば考えるほど不思議です。

でもわかることがいくつかあります。

一つは、自然はわからないということ。

もう一つは、わからないから魅力的だということ。

僕たち盆栽やさんが表現によって伝えたいのは、「わびさび」でしょうか?

僕は盆栽の中から「侘びさび」を取り出して、「これがわびさびです」ということは出来ないし、それがどこにあるのかもわかりません。

盆栽を前にして、皆さんは何をおもうでしょうか?

僕は、僕の思う感動は、その作品を前にして、頭が真っ白になることだと思っています。

「言葉を失う」という言葉です。わからなくなるんです。理屈っぽいくせに、その理屈が出てこない。

だから、「自然らしさの表現」というものは、考え方によっては、

「わからないことの不思議に出会う表現」なのかもしれません。

「奇跡」です。

人生が180度変わってしまうような、そんな発見があるような。

僕もいつの日か、僕たちが繋いだ命のバトンを見た誰かが、口をあんぐり開いて言葉を失ってしまうような、そんな表現が出来るようになりたいなと夢見ています。

今は、その不思議を求めて、木々と対話する日々です。

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