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米栂原生林を歩く。

先月の頭ごろから、吾妻山のスカイラインが開通になりました。

吾妻小富士付近はまだまだ雪が多く、鳥子平あたりは雪壁の間を走るラインになるのですが、

昼下がり3時過ぎごろ仕事の合間を縫って、チョコッと山に行ってきました。

今回は、その雪が特に多い箇所の雪の上を歩きながら、米栂の古木が立ち並ぶ森の中を歩いてきました。

Dsc02100

ここの雪壁は、八甲田や八幡平に比べれば、赤ちゃんみたいなものです。

それゆえ今の時期に原生林の中を歩くことも可能です。

Dsc020811 鳥子平の入り口(雪でわからなくなってます)を通り抜けてはじめのカーブにある斜幹の米栂が、原生林の入り口です。

Dsc020841 雪の壁をよじ登るとすぐに迎えてくれるのが、双幹の古木です。

端整な姿で、まさに盆栽のお手本といえる名木です。

親の頭の部分が、やたらこんもりしているのは、石化といって、病気の一種で、枝がやたら細かくなったものです。

Dsc020861 米栂の天然のジンです。

これも、盆栽作りのお手本になります。

つるつるに尖ったジンや、バッサリ綺麗に切り落とした枝はどこにもありません。

Dsc020901 米栂の枯れ木です。

こういった枯れ木は、枝振りが見えるのでとても勉強になります。

よく盆栽では、ジンが沢山付いていると、傷が見苦しいとか、ジンが少ないほうが価値があるといわれますが、

ぼんさいや「あべ」では、吾妻の自然をモチーフに盆栽を仕立てていますから、こういった傷だらけの幹こそ、樹の古さを演出するには欠かせない表現だと考えています。

それにしても、この樹の生き様が、その傷に見て取れます。

僕たち人間も、身も心も沢山辛い思いをして、傷つきながら生きることで、個性的になっていくのかもしれませんね。

Dsc020881 こういった枯れ木もあります。

なんだかお稲荷さんみたいですね。

自然がつくる表現は、いつも人知を凌駕します。

どうしてこんな姿になったのだろうと考えることの面白さ。

そして、どうしてこの樹とめぐり合えたのだろうという偶然の不思議。

自然を表現するということは、こういった不思議を、見る人に感じてもらうことなのかもしれません。

Dsc020871 枝が、雪に押しつぶされることで、下方に下げられます。

盆栽で言うところの枝が下がるというのは、こうした自然の中で起こる偶然を、僕たちが代わりに行っているということなのです。

Dsc020891 この樹はクロベヒノキの古木です。

先ほどの条件のまま枝が枯れると、こういった面白いジンになってしまいます。

こういった枝はをみると、「轟」という蝦夷松の盆栽の枯れた右の枝を連想します。

それにしても雪の重みは計り知れないですね。

Dsc020951 「枯れる!枯れない!枯れる!枯れない!」

そんな繰り返しが、複雑な形のジンを作り出したのでしょうか。

植物の世界では、一本の樹の中で、生きることと死ぬことが同時に起きているかのようです。

それにしてもグロテスクですね。

Dsc02099 米栂の原生林の中には、そのほかに、クロベ、トドマツなんかも混ざっていて、どれも、一筋縄で育ってきてない苦労人ばかりなのですが、

わずかながら、吾妻五葉松もまざっています。

もともと五葉松の自生地だったのでしょうか、残された五葉松は近くの自生地でも中々見れないような大木、古木です。

この樹も、五葉松の中でも特に根元は太いと思われます。

根元から2メートル近く積もった雪の上でも、幹周りは大人が三人手を回しても足りないほどでした。

左に張り出した枝ですら、かなりの太さでした。

屋久島で見た屋久杉の枝を思い出します。

というわけで、吾妻山の中には、まだまだ紹介しきれないほどの自然の景色があります。

吾妻山の厳しい環境が作るワイルドな表現は、本当に盆栽のお手本になります。

ところで、僕がいつも考えるのは「自然」は一体なんだろう?ということです。

それは、どういった条件でこういう形が出来たとかいう科学的なことではなくて、

なぜ僕は、この景色を見ると、決して他では感じることの出来ない感覚が沸いてくるのだろう?ということです。

なぜ、こんなにグロテスクで荒々しくて、イタイタしいこの木々たちを見ると、心の底からとても透き通った爽やかな風が、僕の血液を流れていくのだろう?

なぜ自然なのだろう?でも、その自然とは一体なんのだろう?

考えれば考えるほど不思議です。

でもわかることがいくつかあります。

一つは、自然はわからないということ。

もう一つは、わからないから魅力的だということ。

僕たち盆栽やさんが表現によって伝えたいのは、「わびさび」でしょうか?

僕は盆栽の中から「侘びさび」を取り出して、「これがわびさびです」ということは出来ないし、それがどこにあるのかもわかりません。

盆栽を前にして、皆さんは何をおもうでしょうか?

僕は、僕の思う感動は、その作品を前にして、頭が真っ白になることだと思っています。

「言葉を失う」という言葉です。わからなくなるんです。理屈っぽいくせに、その理屈が出てこない。

だから、「自然らしさの表現」というものは、考え方によっては、

「わからないことの不思議に出会う表現」なのかもしれません。

「奇跡」です。

人生が180度変わってしまうような、そんな発見があるような。

僕もいつの日か、僕たちが繋いだ命のバトンを見た誰かが、口をあんぐり開いて言葉を失ってしまうような、そんな表現が出来るようになりたいなと夢見ています。

今は、その不思議を求めて、木々と対話する日々です。

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