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ちょいとイップク。(個性について、言わせてください)

002 昨日作った盆栽です。

わかりづらいですよねぇ。

写真で盆栽を撮ると、思うように撮れないものです。

ましてや、新木づくりとなると、枝骨がむき出しで太い針金も目立つので、

余計難しいものです。

逆にいえば、写真で見ると肉眼で見るとわからない粗まで見えるので、

よりディティールにこだわるなら、こういった方法も大切なのです。

人間の目は、自然のものですから意外と信用できないのかもしれませんね。

001

今年初めて育ててみた、ミナ・ロバタです。

西洋あさがおってことですが、サルビア見たいな花が面白くて、ついついかってしました。

他の朝顔以上にグイグイ伸びて、あっという間に花が咲くと思ったら、

まるで花が咲かず、今になってようやく花が咲きました。

どうやら肥料を効かせすぎると、花期が遅れるそうです。

考えてみればその通りなんですが、知らない種類に応用できないのは、まだまだ頭でっかちな証拠。

それでもまぁ、こんな遅くに満開になると、朝顔とかぶらないので、結果オーライでしょう。

こうやって同じ朝顔でも、沢山の種類をみていると、個性っていうものを考える機会が増えます。

たとえば、個性というものが、「ありのまま見たまんま」なら、盆栽はまさに、木の個性を消していく作業ということになりそうです。

それは、講習会をしたりすると良く感じることです。

新木作りなどの最中で、必ずあがる質問があります。この枝はカンヌキ枝じゃないか?この根張りは良くないのではないか?この樹形は、斜幹なのか?それとも直幹なのか?」

ありのままの状態から、みなさんの共通事項である忌み形を消していく作業が盆栽なら、頭の中では、全て同じ盆栽になってしまうはずです。

ところが実際に盆栽を作ってみるとそうはならない。

必ずと言っていいほど(特に新木作りにおいては)欠点は存在します

そして荒作りの作業中には不思議なことが起こります。

ばさばさの状態では欠点を見つけられない人が殆どです荒作りが終了に近づくほど、欠点を見つけて指摘する人が増えてくるのです。

例えば、残した枝がカンヌキ枝じゃないのか?とか、曲の内側に枝があるじゃないか?などです。

不思議です。欠点を消していく作業が盆栽なら、僕らの仕事は、何故かえって欠点が露出する結果をまねくのでしょうか?

それについて、僕はこう考えます。

まず結論から言うと、「個性とは、与えられた体で、何が出来るか考えることである」ということです。

新木作りは、欠点探しから始めるものではありません。

その木に与えられた枝や根張りから、僕たち人間が考える役割(型)を選び出すことです。

この木は、どんな樹形になるだろう?

この木の、差し枝になる枝はどれだろう?

この木の、後ろ枝になるのは?

この木の、頭になるのは?

当然、それが僕たちが思う理想どうりにいくはずがありません。

当たり前です。相手は自然なのですから。

だから、仕上がった木には、忌み枝がついていることが殆どです。

けれど、僕たちは、その欠点をそのままにするようなことはありません。

例えば、今はそこに枝が無いけど、将来その上の枝が伸びてこれば、いずれはいらなくなるとか、つねに生き物、成長するものですから、欠点を消していくことは可能です。

それでも、どうしても消せないものがある。例えば幹からの立ち上がりの曲は、後ではどうにもならないことが殆どです。

そうやって、個性を消していくことで、かえってその木特有の個性が浮き彫りになっていくのです。

だから、新木を作る前より、作った後で欠点を指摘する人が増えるわけです。

ところが考えても見てください。

どれも欠点を完全に取り去ることが出来たなら、果たして全ての木はどれも同じ姿になってしまわないでしょうか?

かといって、全ての木が個性をありのまま全て身につけていたら、それも見分けが付け難い。

畑に一面植えられた木は、一見するとどれも同じに見えます。足元をのぞいて見ないとその姿はわかりません。

だから僕は思うんです。

個性は与えられた体をどのように使うか、使ってきたかで初めて表れてくるんだと。

一昔前、世界に1つだけの花、という歌が流行りましたが、

何もしなければ個性の花は咲きません。

それぞれが違うからと言っても、みんな同じ国、言葉、教育、政治、経済の中で育っていかなければいけない。

けれど、個性はそんな脳みその中にあるんじゃないんです。

そういった同じルールの中で、与えられた性別や、体、病気と向き合いながらどうやって生きていくかを考える、そしてそれを実践することが、個性なのです。

盆栽も、同じ型のなかで、どうやってこの樹を活かしていくかを考えるのが面白いんです。

こういった話に適した例かわかりませんが、

僕が尊敬するパオの槙坪監督が、ある方に「どうしてそのような体でがんばるのですか?」と質問したそうです。(槙坪監督は長年リウマチと共に生きています)

その質問に対して監督は

「みなさんがこの年になると、だんだんあれもこれも出来ないというようになりますが、私はみんなできないんです。初めからできないんです。ただ私に出来るのは、映画を作ることだけですよ。映画を作ることだから生きている意味があるんです。」

と仰ったそうです。

僕は、この言葉を聞いてとても感動したし、この言葉が僕にとって個性とは何だろう?と考える大切なキッカケになったわけです。

僕たちは、あまりにも理想的な型が、当たり前だと思い込みすぎているんじゃないでしょうか?

だから、そういった個性を、欠点だの、忌み形だの、不自然だのいうんじゃないのでしょうか?

うちの親父はいいます。

「確かにこの枝は欠点かもしれない。けれどこれがこの樹の自然らしさなんだ」

ということは、個性は意識しなくても、自分自身の体に備わっているということです。

僕で言うなら、身長の低さとか、顔のどんぐりさとか。

その体で生きてきたから、今の僕がいるわけです。

よく「俺の身長があと10cm高かったら、歴史が変わった」なんて冗談をいうように、僕の体が、ぼくの人生そのものです。

クレオパトラがもう少し低かったら、世界の歴史は大きく変わっていただろう」

的な話です。

これなんて自分の理想と、自分の個性のギャップの典型的な例ではないでしょうか?

あまりにも美人すぎたからこそ、その個性は目立ってしまった。とは考えられないでしょうか?

だから個性を受け入れるというのは、実は本人の覚悟の問題なのです。

覚悟が無ければ、本当の個性は得られない。

覚悟とは、見たままを信じることです。今の自分を信じることです。

覚悟が無ければ、最悪、クレオパトラと同じ結果を招く事だってあるでしょう。

今の自分を信じることが出来ないから、自分で自分を裏切ってしまったのでしょう。

ですから極論ですが、そんなに個性が欲しいなら、簡単です。

今すぐにその腕を切り落としてしまえばいい。

必ず、次の日からあなたの人生はかわるでしょう。

盆栽の枝抜きは、そういうことです。

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