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あしたは飯館で「までい」なお祭りデイ!

あした31日土曜日は、福島県の飯館村でいいたてエコ祭りが行われます。

僕は、苔玉で参加します!

今回は、FOR座RESTでお知り合いになった菅野牧園の菅野さんに声をかけていただきました。

皆さん、この祭りはいいですよー!

「までい」とは福島の方言で、「丁寧」という意味です。

まさに盆栽、苔玉は、までい!

いいたて村は「までいライフ」がキャッチコピー。

ということは、いいだて村と盆栽は、考え方が一緒。

と、半ば強引ですが、エコ祭り皆さん是非遊びに来てくださいね。

ちなみに、いいたて村には僕んちの盆久楽会の会員さんがいらして、飯舘村の公民館に入ってすぐのエントランスには、もう10年以上前から僕んちの盆栽や、山野草、その会員さんの盆栽が飾られています。

その盆栽がきっかけで、飯舘村に映画の上映にいらしたパオの光永さんとお知り合いになりました。

飯舘村に、この様な形でお手伝いできることは、うれしいことです。

飯舘村さんとのご縁に感謝いたします。

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命日でした。

今日は、初代の倉吉爺さんの命日でした。

家族でお墓参りにいってきました。

なくなって18年経ちました。

今でも亡くなった日の事は鮮明に憶えています。

あの日も大変暑い日でした。川遊びから帰って来ると、もう花輪が並んでいました。

そして、それから18年、毎年のようにお線香を上げに来ていただいているお客さんたちがいらっしゃします。

きっと爺さんもあっちで喜んでいることでしょう。

ありがとうございます。

爺さんの資料です↓ぜひご覧下さい。

http://www.adica.co.jp/bonsai/bonsakisekai1986_12.pdf

http://www.adica.co.jp/bonsai/syouhakubonsainobi.pdf 

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蓮ぅ。

きのう早起きして、桑折町の蓮祭りにいってきました。

007 まるでボタンのような蓮です。

花弁全体が桃色で、ほんと美しいです。

このお祭りの蓮は、町の有志のみなさんが普段から丹精込めて育てている蓮です。

珍しい蓮や、美しい蓮を求めて遠く関東方面からもお客さんが来ていました。

009お祭りのスタッフのかたは手作りの蓮Tを着ていました。

このお祭りに対する想いが伝わってきました。

蓮は、育ててみると以外に手間もかかるし、毎年花を咲かせるのも、手をかけないと咲きません。(瓶で育ててます)

小さな花芽がするすると上がってくると、気持ちが上がってきます。

006  あ、ほら、気持ちが穏やかになりませんか?

001 我が家の蓮も咲き始まりました。

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吾妻山登ってきました。

本日、「盆栽世界」の取材で、吾妻山に行ってきました。

コースは一切経から日暮しコースです。

詳しい取材の内容は、来月6日発売の「盆栽世界9月号」に掲載予定です。

というわけで、僕のレポートは、雑誌掲載後に書きたいと思います。

今回の登山は、かなり緊張感のある面白い経験をさせていただきました。

ぜひぜひ、盆栽世界9月号、読んでくださいね。

021 一切経の頂上、おいしい空気さん、ありがとう!!

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For座Restの映像 

For座Restのレポートが続々届いています。

Hpのトップの「photo」から画像がみれます。

続きまして、youtubeで映像がみれます。

どちらもちゃっかり僕が映っています。

そして、これからメディアでも続々取り上げていただいてます。(FzRのブログから転載)

福島テレビ(FTV)
 7月10日(土) 放送済み
 7月17日(土) 17:00~
 
2006年から番組を作って頂いていおり、
FOR座RESTの歴史を知るアナウンサー原田さんの2週にわたる特番です。

テレビユー福島(TUF)
7月23日(金)深夜24:50~25:45(54分番組)
 
廣瀬座のステージを中心にした54分におよぶ番組です。廣瀬座に入場できなかった方、ぜひ お楽しみに!FORESTではありませんが、自宅でFOR座RESTして下さい!

BRUTUS
7月15日発売

今年は、あのBRUTUSにFOR座RESTが掲載されます。ジブリ特集号です。楽しみですね!

というわけで、当日行けなかった方も、遠方の方も、ぜひイベントの様子を楽しんでください。そして、来年は当日民家園でお会いできることを楽しみにしています。

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On the えきなせあ。

雨降りですね。

草むしりの日々に、ほっと一息の一日でした。

自然に振り回されていきる。

まるで恋愛です。

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言語だけが言葉じゃない。

For座Restで、アフリカの太鼓をたたいていた人たちいたんですが、菅野家で。

馬場家からすぐなんだけど、最後の最後にようやく菅野家にいったら、太鼓をたたくところでした。ラッキーでした。

太鼓の鼓動が胃袋に当たって心地よかったです。

僕は音楽は全然わかりませんが、その音が好きだなって思いました。

そしたら、その音楽はやはり現地の人がおもてなしの時に演奏するものだそうで、確かにこういった形で「ありがとう」や「きみに会えてうれしいよ」を表現するのも素敵な文化だなって思いました。

僕たちもなんか思いがけず、すごい嬉しいときとか悲しい時に、その気持ちをとにかく表現せずにはいられない事ってあると思います。

大学時代に一目ぼれした子となかなか仲良くなれなかったんだけど、帰りのロッカーでむこうから初めて声をかけられたときに、あまりのうれしさに人目をはばからず、大学構内のメインストリートの真ん中で「うおーー!!!」と大声を出して喜んだことがあります。

懐かしいおもいでですが、もしそんなときに喜びを表すダンスを踊れたなら、僕は間違いなく踊っていたでしょう。

ただそれは喜びを表すという意味を理解したうえでの選択かもしれませんが、そんな理由も無く例えば動物たちは、色々な求愛行動をそのままコミュニケーションの形として使っています。

僕たちはある程度、言語を知っているつもりで、自分の感情や相手の表現をその言語によって理解しようとしますが、

そのとき聞いた太鼓の音色は、ただその音そのもので気持ちが高ぶったし、要するに気持ちよかったんです。

ただ、おそらくは沢山のシーンで沢山の音楽があると思われ、その音色から伝わってくる感情をそのまま受け入れられるようになるには、時間がかかるんだと思います。

理由は簡単で、僕たちが自然と言葉を覚えるのに時間や苦労を意識しなくとも、30になって、今から新しい言語を身につけようと思っても、そうたやすくないという事と一緒だからです。

アフリカの人たちは子供の頃からこの音色に触れているから、誰に教わらなくても、自然とおもてなしの時にその音色が言葉として理解出来るんだと思います。

自然から学ぶというのもまったく同じ意味です。

自然の形は、その形そのものが言葉です。その言葉を僕たちがその言葉で理解するというのが自然を読み解くということです。

僕たちが盆栽をみるときは、その形そのものを見ているわけです。

自分の心の中ですから、わざわざ日本語に翻訳していません。

わざわざ翻訳しようとすると、ピカソの絵も「わからない」となるんだと思います。

盆栽の前を素通りする人の殆どが、盆栽の持つ言葉の意味を「わからない」から「興味がない」んだと、そういった観点からもみれなくないんじゃないでしょうか。

「盆栽を上手に作るにはどうしたらいいんですか?」と聞かれることがあります。

僕は「とにかく自然の樹木を観察すること、そして盆栽をじっくりと眺めることです。」と説明します。

「自分の頭に中にイメージが無ければ、たとえ技術があってもその姿は描けませんよ。」と、生意気にも言っております。

もちろん、その逆もしかり。

盆栽が好きだといって、たくさんの樹を見てきたといっても、その一本の樹を何十分も何時間も観察したことがあるという人は少ないと思います。

でも、そうやって体の中にその言葉がイメージとして染み付くまで、その行為を繰り返さなければ、中々身にはなってくれません。

よく絶対音感といいますが、音のイメージに限らず、子供の頃に触れた自然は、内なる自然として必ず心の中に、1つの言葉として残るはずです。

それに「才能」と名前を付ける人がいます。

けれど、それは子供の頃に身につけたネイティブな言葉であって、それが大人になってからでも、身につけようと思えば身につけることは出来るはずだと信じています。

僕はそれは「才能」ではなくて「言葉」と名付けようと思います。

ただ大人になると、言語としての言葉が邪魔をして、素直にその言葉を理解するには、相当の時間と努力が必要だと思います。

だれにも教わらずに、古代の象形文字を使いこなせるようになる人はそういません。

というわけで、僕たち表現者は自分の仕事を、相手に伝わるように説明するという努力を惜しんではいけないと思うのです。

自分の才能のうえに胡坐をかいていては、誰にも興味をもたれずに終わってしまうだけです。

以前採用と教育さん主催の臥龍先生の講演会で、「伝わらなければ、無いのと同じ」とお話しを頂いて、興味の対象にならなければ、その言葉を覚える方向に人は向かないなと、実感しました。

英語を使う必要の無い人は、英語を覚えようともしないということと一緒です。

だからこそ、僕たちは最初の太鼓を聞いたときと同じで、なんだかわかんないけど気持ちがいい、とかそういったところから、「これはこういったおもてなしの場面の音楽です」という説明を受けて、よりその世界の言葉に興味を持つように、

我が家の盆栽が持つ「空間有美」というその姿を、しっかりと説明しながら、どんどんと新しい興味をいだいてくれるように、多くに人と出会い、盆栽を眺めてもらう機会を増やしていこうと思いました。

そういった意味でも、今回のF座Rは非常にいい機会だったし、今度は我が家で盆栽を飾って、みんなで食事をしてもらうようなイベントをやってみたいと、新たに意欲がわいてきました。

沢山のストレスを抱えた人たちが、表現の行き場を無くして苦しんでいるのなら、その心のずっと奥に眠る情熱を、引き出して解き放ってくれるのが、アートといわれる分野の使命ではないでしょうか。

Dsc02458

「空間有美とは、字の示すとおり、空間には美しさがあるということです。

 枝と枝との空間、幹と幹との空間、鉢との空間など、盆栽を作る上で空間を生かし、空間の表す美しさを見つけ出し、作っていくことがいかに大切かということがこの四字から汲み取れます。」

「枝のハズミも変化も無く、ただ、庭木を刈り込んだように、樹幹一面がべったりと葉で埋まっている木がありますが、これでは肝心な幹模様も枝ぶりも見られず、手入れの行き届いた庭木のツゲやツツジや、茶畑を見ているようで、少しも味がありません。

この様な木を見ていると、盆栽には、いかに空間(間)が大切かということがありありとわかります。」(五葉松盆栽のつくりかた 阿部倉吉)

その空間の美で、人の心を癒せたら、こんなに幸せなことはないでしょうね。

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本当の自尊心

先日飯館村のお客さんのところにお邪魔してその帰り、県道一本道をゆっくり帰っていると、後ろからグングンとあおってくる車がありました。

なんだか車にあおられるといい気持ちにならないから、思わず気持ちがあせってスピードを上げようとしましたが、

後部座席に乗っていた親父が、

「親父(倉吉爺さん)はよく、『追い抜いた自慢より、追い抜かれた自慢をしろ。』といっていたなぁ。」

といいました。

目的地に早く着きたいなら、いつもより30分でも早く家を出ればいいだけじゃないか、と。

爺さんらしいお話です。

僕らは生活や仕事の中でそうやって、誰かにあおられたり、せかされたりしながら必死で自分の居場所を守ろうとします。

でもそうやって必死に守っているものが、はたして本当に守り抜かなければいけないものなのでしょうか?

確かにそれは大変な苦労を重ねて自分で作った自分の居場所かもしれません。

けれど、それはまるで車の運転のように動き続けているとするならば、

その居場所を脅かしたり、その先に追い抜いていこうとする人は必ずいるはずです。

「おっせーな、どけよ!」、「邪魔だな、おい!」みたいに。

そんな時は、思い切って自分の居場所を受け渡してみるのも大事なのかもしれません。

少なくとも、そうやって車を先に行かせたりすると、そのあとはまたゆっくりと自分のペースで、しかもしっかりと前進していきます。

運転に対する冷静な判断も戻ってきます。

たまに、次の信号でさっき抜いていった車に追いついたりもします。

「その自尊心が本物なら、他人の侮蔑を意に介さないように、

その自尊心が本物なら、死ぬよりも先に他人に頭を下げることも出来るはずじゃないか」(14歳からの哲学 池田晶子)

クロマニヨンズのスピードとナイフじゃないけど、

変わるスピードは人それぞれ違うはず。

あまり自分の居場所を守ることに意固地になりすぎると、結果的には自分の居場所を失うこともあるかと思います。

盆栽は積み重ねられた想いを次の世代に繋いでいくお仕事。

盆栽が必要とされるなら、様々な居場所を与えてあげるのが僕たちの役目です。

パオの光永さんが仰っていた、

「女性の居場所を作ってあげるのが、男の甲斐性」

というのも、本当の自尊心を問われるなぁ、と実感しています。

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