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言語だけが言葉じゃない。

For座Restで、アフリカの太鼓をたたいていた人たちいたんですが、菅野家で。

馬場家からすぐなんだけど、最後の最後にようやく菅野家にいったら、太鼓をたたくところでした。ラッキーでした。

太鼓の鼓動が胃袋に当たって心地よかったです。

僕は音楽は全然わかりませんが、その音が好きだなって思いました。

そしたら、その音楽はやはり現地の人がおもてなしの時に演奏するものだそうで、確かにこういった形で「ありがとう」や「きみに会えてうれしいよ」を表現するのも素敵な文化だなって思いました。

僕たちもなんか思いがけず、すごい嬉しいときとか悲しい時に、その気持ちをとにかく表現せずにはいられない事ってあると思います。

大学時代に一目ぼれした子となかなか仲良くなれなかったんだけど、帰りのロッカーでむこうから初めて声をかけられたときに、あまりのうれしさに人目をはばからず、大学構内のメインストリートの真ん中で「うおーー!!!」と大声を出して喜んだことがあります。

懐かしいおもいでですが、もしそんなときに喜びを表すダンスを踊れたなら、僕は間違いなく踊っていたでしょう。

ただそれは喜びを表すという意味を理解したうえでの選択かもしれませんが、そんな理由も無く例えば動物たちは、色々な求愛行動をそのままコミュニケーションの形として使っています。

僕たちはある程度、言語を知っているつもりで、自分の感情や相手の表現をその言語によって理解しようとしますが、

そのとき聞いた太鼓の音色は、ただその音そのもので気持ちが高ぶったし、要するに気持ちよかったんです。

ただ、おそらくは沢山のシーンで沢山の音楽があると思われ、その音色から伝わってくる感情をそのまま受け入れられるようになるには、時間がかかるんだと思います。

理由は簡単で、僕たちが自然と言葉を覚えるのに時間や苦労を意識しなくとも、30になって、今から新しい言語を身につけようと思っても、そうたやすくないという事と一緒だからです。

アフリカの人たちは子供の頃からこの音色に触れているから、誰に教わらなくても、自然とおもてなしの時にその音色が言葉として理解出来るんだと思います。

自然から学ぶというのもまったく同じ意味です。

自然の形は、その形そのものが言葉です。その言葉を僕たちがその言葉で理解するというのが自然を読み解くということです。

僕たちが盆栽をみるときは、その形そのものを見ているわけです。

自分の心の中ですから、わざわざ日本語に翻訳していません。

わざわざ翻訳しようとすると、ピカソの絵も「わからない」となるんだと思います。

盆栽の前を素通りする人の殆どが、盆栽の持つ言葉の意味を「わからない」から「興味がない」んだと、そういった観点からもみれなくないんじゃないでしょうか。

「盆栽を上手に作るにはどうしたらいいんですか?」と聞かれることがあります。

僕は「とにかく自然の樹木を観察すること、そして盆栽をじっくりと眺めることです。」と説明します。

「自分の頭に中にイメージが無ければ、たとえ技術があってもその姿は描けませんよ。」と、生意気にも言っております。

もちろん、その逆もしかり。

盆栽が好きだといって、たくさんの樹を見てきたといっても、その一本の樹を何十分も何時間も観察したことがあるという人は少ないと思います。

でも、そうやって体の中にその言葉がイメージとして染み付くまで、その行為を繰り返さなければ、中々身にはなってくれません。

よく絶対音感といいますが、音のイメージに限らず、子供の頃に触れた自然は、内なる自然として必ず心の中に、1つの言葉として残るはずです。

それに「才能」と名前を付ける人がいます。

けれど、それは子供の頃に身につけたネイティブな言葉であって、それが大人になってからでも、身につけようと思えば身につけることは出来るはずだと信じています。

僕はそれは「才能」ではなくて「言葉」と名付けようと思います。

ただ大人になると、言語としての言葉が邪魔をして、素直にその言葉を理解するには、相当の時間と努力が必要だと思います。

だれにも教わらずに、古代の象形文字を使いこなせるようになる人はそういません。

というわけで、僕たち表現者は自分の仕事を、相手に伝わるように説明するという努力を惜しんではいけないと思うのです。

自分の才能のうえに胡坐をかいていては、誰にも興味をもたれずに終わってしまうだけです。

以前採用と教育さん主催の臥龍先生の講演会で、「伝わらなければ、無いのと同じ」とお話しを頂いて、興味の対象にならなければ、その言葉を覚える方向に人は向かないなと、実感しました。

英語を使う必要の無い人は、英語を覚えようともしないということと一緒です。

だからこそ、僕たちは最初の太鼓を聞いたときと同じで、なんだかわかんないけど気持ちがいい、とかそういったところから、「これはこういったおもてなしの場面の音楽です」という説明を受けて、よりその世界の言葉に興味を持つように、

我が家の盆栽が持つ「空間有美」というその姿を、しっかりと説明しながら、どんどんと新しい興味をいだいてくれるように、多くに人と出会い、盆栽を眺めてもらう機会を増やしていこうと思いました。

そういった意味でも、今回のF座Rは非常にいい機会だったし、今度は我が家で盆栽を飾って、みんなで食事をしてもらうようなイベントをやってみたいと、新たに意欲がわいてきました。

沢山のストレスを抱えた人たちが、表現の行き場を無くして苦しんでいるのなら、その心のずっと奥に眠る情熱を、引き出して解き放ってくれるのが、アートといわれる分野の使命ではないでしょうか。

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「空間有美とは、字の示すとおり、空間には美しさがあるということです。

 枝と枝との空間、幹と幹との空間、鉢との空間など、盆栽を作る上で空間を生かし、空間の表す美しさを見つけ出し、作っていくことがいかに大切かということがこの四字から汲み取れます。」

「枝のハズミも変化も無く、ただ、庭木を刈り込んだように、樹幹一面がべったりと葉で埋まっている木がありますが、これでは肝心な幹模様も枝ぶりも見られず、手入れの行き届いた庭木のツゲやツツジや、茶畑を見ているようで、少しも味がありません。

この様な木を見ていると、盆栽には、いかに空間(間)が大切かということがありありとわかります。」(五葉松盆栽のつくりかた 阿部倉吉)

その空間の美で、人の心を癒せたら、こんなに幸せなことはないでしょうね。

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