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教室ではじまる秋

先週、山野草の寄せ植え教室と、苔玉教室がありました。

まずは、NHKカルチャーセンターで寄せ植え教室。

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こちらは、僕が作った見本です。

僕の教室のスタイルは、はじめに僕が作り、その後で皆さんにつくってもらいます。

言葉で説明するより、実際に目で見たほうが、伝わると思うからです。

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ならんだ皆さんの作品。

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同じ種類の組み合わせでも、一本一本同じものがないから、出来上がりも個性的です。

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つづいては、信夫学習センターで苔玉教室でした。

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完成した作品は、棚に飾っていただくのですが、やはり飾って眺めると、達成感もひとしおですね。

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ここ数日の天気は、秋の爽やかさを感じます。

秋は愛盆家さんにとって、まさに充実の秋。

仕事も、展示会も、思う存分楽しめますね。

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これは近くの道の駅に展示したときの写真です。

これからの予定は9月14日に、NHKカルチャーセンターで五葉松の針金掛け教室です。

盆栽をとことん楽しんでもらおうとすると、教室の内容がどんどんマニアックになっていきます。

掘り続けた先の感動は、どこか根気も必要なのかもしれません。

時間です。

待つことが、感動を熟成させるのです。

秋のはじまり、まずは思い切り深呼吸。

さぁ、新しいリズムの始まりです。

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ぼんさいや「あべ」的ひまわり。

わがやでも、ようやく復興のシンボルが咲きました。

こちらは採用と教育の半田さんが立ち上げたプロジェクトです→

017ひまわりの盆栽仕立ては、実は今回が初めてではなく、過去に何度か作ったことがあります。

初めてのときは、薄い鉢に仕立てたくて鉢に種を直播したら、ひまわりの根が鉢を押しのけて、でんぐり返したようになりました。

ひまわりの根は結構な直根性で、勢いも良く、薄い鉢での培養は困難だと、そのとき失敗してわかったので、

それからは深い鉢で仕立てるようにしました。

根っこ自体も地中深くまでのびないと、あれだけ巨体をささえきれないのでしょうね。

このひまわりは本当なら2メートル以上になる種類なのですが、小さな鉢で本数多く植えられているため、このような優しい雰囲気に成長します。

さらに、種をとるなら、肥料食いなので、おそらくこの花には種はならないでしょう。

このように、限られた環境で育てると、単なるひまわりでもいろんなことがわかってきます。

019室内でひまわりを飾って楽しむのも粋なもんでした。

元来、こうやって自然の生き物と一緒に生きてこその文化なのでしょうが、今は人間だけが上手に自然と付き合えなくなってしまいました。

自然を除け者にして、都市や経済が発展してきたという見方もありますが、

実際には除け者にされてきたのは僕たち人間のほうなのかもしれません。

それと同じことで、美しい福島の自然が汚染されたといいますが、放射能がくっついたことと、自然が美しくないことはまるで別問題です。

福島の自然は、にもかかわらず美しいのです。

人が住めないから、汚れているなんて表現は、僕は好まない。

確かに健康を害するリスクはあっても、ものを美しいと感じるとる心まで否定してしまったら、結局は何も信じられなくなるじゃないか。

毎日犬の散歩しながら頭を垂れてきた稲穂をみていると、秋の気配を感じ心がワクワクしてきます。

空たかくに雲をみたり、かえるの音がいつの間にか虫の音にかわったり、肌の乾燥をかんじたり。

そういった一つ一つが、素直に喜べないなら、カレンダーがなんて無機質にみえてくるでしょう。

僕は福島なんて大きな単位で復興するかどうかなんてイメージがもてるほど、想像力豊かではないけど、

自然をみて美しいと思う心が、多くの人に戻ってきたときこそ、本当の復興といえるんじゃないかと、

今日も、明日も、明後日も、植物たちと語り合いたいと願うのでした。

「本当の幸せは自然から得られるものなのです。勲章やお金をもらうことも幸せかもしれません。でも虫の面白さ、夕焼けの美しさと、どちらが本当でしょうか?」(養老孟司)

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最小限で最大限。

今日は、地元庭塚北部地区の夏祭りでした。

放射能の影響で外で遊べない子供たちに、少しでも元気になってもらおうと、養蚕神社の氏子の若い衆(と言っても結構年)でつくる報徳青年団主催で、地区の集会所を貸しきって行われました。

言いだしっぺは僕と、先輩のひとり。

集会所を開放しようと思ってましたが、管理面から実現できなかったので、子供を集めて何か出来ないかと話になり、僕の友人のバールーンアーティストの「みちげ」さんに来てもらおうと案があがったのですが、それなら一緒にミニミニ縁日にしようという次第になったのです。

本日は一日雨でしたが、屋内でのお祭りなので、雨が降ってもへっちゃらでした。

003 地道に水ヨーヨーをつくる先輩方。

005 入り口には神社で使う紅白幕をさげました。

010_2 大人気のスーパーボールすくい。

開始30分で完売終了となりました。

みんなすくった数より、すくうことそのものが楽しかったみたいです。

009寒いからカキ氷は不調でしたが、

その分ラムネが人気でした。

暑すぎるのも問題ですが、寒いのも問題ですね。お天気はマッタク気まぐれです。

014 みちげさんのショータイムです。

子供たちはバルーンアートに釘付けでした。

015 報徳青年団の面々。

団員9名の絶滅危惧種。

ところがお祭りに関しては大好きな、まとまりのある大人たちです。

016みちげさんのデモンストレーションは面白かった。

風船であれもこれも作れるなんてビックリ。

子供たちのイメージがさらに大きくなってくれたらいいですね。

今回のお祭り、報徳青年団としては初めての試みで、どれだけ子供たちが来てくれるかふたを開けるまで皆目見当がつきませんでした。

実際にふたを開けてみると、子供だけで50名以上集まってくれて、大盛況となりました。

僕が司会進行だったのですが、「来年も夏祭りやりたい?」ってきいたら、みんなで「はーい!」と応えてくれました。

うれしかったー。

反省会では、来年度以降も継続する前提で、「夏祭り実行委員会」を組織していこうということになりました。

ようするに団員以外で、夏祭りを応援してくれる地区の人たちも含めて、組織しようというわけです。

夏祭りをとにかくやることで、今ここに残っている子供たちに少しでも楽しい思い出を作って欲しいと願うし、

この地区を離れた子供たちも、またいつの日か、ここに戻ってきたいという動機になればいいなと願います。

大きな地球、世界、日本、福島。

そんなおおきな器で何かを考えることだけが、地域を救うことにはなりません。

僕たち一人ひとりのレベル、或いは小さなコミュニティーのレベルで、自分たちに出来ることを精一杯やることで、強くなれる、或いは救える心もあるんじゃないでしょうか。

僕は職業柄、掘って、掘って、それでも掘って、そこに着いたらまた掘って、みたいに考える性質で、

だから、庭塚北部地区でできる、最大限を目標にして、子供たちを楽しませていきたいなとそう感じています。

心強い先輩や、素直な子供たちに恵まれて、ほんとうに幸せだし、

今回の震災、原発事故のおかげで、さらに地域の絆を強く感じたし、強く出来たことは、ある意味一番の収穫だったのかもしれません。

さぁ、来年の夏祭り、実現に向けて、また盆栽やさんをがんばろっと!

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ようやく一番花

ようやく我が家の緑のカーテンに花が咲きました。

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なんだか上手に咲ききれてないですが、一番最初なんで撮りました。

今年は、暑さと、肥料を少なめにしているのとで、葉があまり大きくならず、カーテンにしては今ひとつのできばえです。

大成功だった一昨年は、夕顔とミナ・ロバタ、大輪の青雲が入っていたので、葉の茂りも一段と賑やかだったのだと思います。

それにしても去年に比べれば上手くいっています。

去年は、色々新しいものに手を出して大失敗しましたが、今年は原点に帰って、フライングソーサーと、ヘブンリーブルーにしました。

ヘブンリーブルーは近所で秋遅くまで咲いているのを見て、いいなぁと思っていました。

一度修行中にベランダで育てた時は、いつまで経っても咲かないから、心配になってたくらいですが、秋口にあの青の閃光はたまらないと思います。

フライングソーサーは、マイ朝顔ナンバーワンですね。

斑の入り方が、何とも好きです。涼しげと言いますか。

そういえば、近くの団地に、見事なモッコウ薔薇のアーチを作っている家があったのですが、アーチがまるっきり切られて鉄のアーチだけになっていました。

毎年少しずつ大きくなってきて、ようやくこの2,3年で凄く綺麗な薔薇のアーチになっていたのですが、

憶測ですが、玄関前の通り道に作っていたから、放射能が心配で切ってしまったのかもしれません。

以前、テレビの取材で、市内の小学校の教頭先生が、校内を囲む桜を切って欲しいと言っていました。

良し悪しは別として、とても都会的な発想で、僕は考えもつかないことでした。

なぜなら、NHK特集で放射線を測って県内をめぐる研究者の特集を見たとき映像の中に、僕は、原発敷地内にある桜が満開に咲いているところを見つけ、

「それでも自然はうつくしいなぁ」

と、不謹慎にも感動してしまいました。

確かに、目の前の景色は、放射能に汚染されてしまい、決して安全とはいえないものになってしまいました。

にもかかわらず、目に映るその光景をそのまま素直に美しいと思う心を、僕は持ち続けたいと思います。

汚染された桜を子供たちのために切ってしまうことも、大切なことかもしれません。

ただ、汚染された桜も美しいと感じる心の灯火を、消してしまわないことも僕にとっては正しさなのです。

そして、一瞬でも受け入れがたい状況を忘れさせてくれるその花の美しさに、感謝する気持ちを忘れてはいけないと思います。

「戦場に咲いてしまった、

 銃声を聞いてしまった、

 何一つ選べなかった、

 戦場に咲いてしまった。」

(「不死身の花」ザ・ハイロウズ)

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朝寝坊のセミ

003大概のセミは、夕方出てきて、朝には羽を広げて飛んでいくもんです。

こいつはお昼すぎてもこんな感じでした。

その後なんとかトラブルもなく、ちゃんとどっかに飛んでいきました。

7年ぶりに土から出てきて見た世界は、どんな風に映ったんでしょうね。

あの地震のとき、ビックリしたのかな。

そういえば、津波に飲まれた地域ではセミは這い出してこれたのでしょうか。

モグラもミミズもどうなってしまったのでしょうか。

僕らが普段気にも留めない生き物たちが、知らない間に姿を消してしまうことは、あまり僕らに関係ないことかもしれません。

ところが、その環境に住み着いている生き物は、だれも名前がわからなくても、誰の目にも見えないくらい小さくても、僕らと同じ世界を生きているには変わりなく、

意味はなくても、必要があってそこに住み続けているのだと思います。

どんなに科学が進んでも、どこからかやってきた遺伝子繋ぎ合わせて虫を作ることなんて出来ないじゃないですか。

それは人間だって似ているとことがあると思います。

考えられないくらい田舎でひっそりと暮らしている人だって、誰にも理解されない精神を抱えている人だって、いなくてはいけないんだと思います。

いまは世の中が混乱していて、自分を信じることが出来ないときかもしれません。

正しさとは、情報の正しさとは違います。

それは自分自身の中にある、ただ1つの正義です。

だから正しさの数は八百万あって、善意の数は70億以上あってもいいんだと思います。

選べないんだったら、まだまだ自分の精神が未熟なんだと受け入れるしかないんです。

人と違う正義を持つということは、覚悟と勇気を必要とします。

そして何より、孤独や影をうんと豊かにしておくということです。

「望みとは何か?よいとはどういうことか、わかっておられるのですか?」(「はてしない物語」ミヒャエル・エンデ)

自分の正義がわからないうちに、他人の正義に乗っかるくらいなら、

たとえクソッタレな世の中だとしても、一度黙って(潜って)精一杯生活してみることが僕にとっては必要なんだと、そう感じるこのごろであります。

七年後に見る世界は、どうなんでしょうか、美しいんでしょうか。

たとえ世界が変わらなくても、その時は自信をもって蛹から、かえりたいものです。

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今は、何が見える?

というわけで、行ってきました吾妻山、会ってきました日暮しの松。

当日は、神様もうらやむ天晴れでした。

それでも、午後から毎日山は黒い雲に覆われていましたので、浄土平を出発したのは、朝の6時半でした。

37 j今回のルートは、酸ヶ平から、一切経に登り、尾根伝いに平石山を目指し、平石山から藪を掻き分けアオモリトドマツの深い森の中にある日暮しを目指すコースです。

40 右に見えるのが平石山、左は東大テンです。

42一切経への登山道でも、様々な姿をした五葉松に出会うことが出来ます。

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48 どの木も個性的で、本来ならゆーっくりと眺めていたいところですが、目的地はまだまだ先です。

47 朝の光を浴びて、草がキラキラと輝いていました。

50 下界を見下ろすと、福島盆地や猪苗代湖、米沢の平野と、遠くまで綺麗に見ることが出来ました。

福島の街を俯瞰しながら、ここが放射能に汚染された街なのかぁ、と感慨深くなりました。

美しいのに、汚染か。住めないのは人間だけじゃねぇか。なんてね。

52 一切経の頂上は相変わらず草木も生えない厳しい環境でした。

58 頂上から見下ろした五色沼は相変わらず美しい。別称、魔女の瞳には、本当に吸い込まれそうになるから怖いですね。

61一緒に登山したメンバーが、登山の記念にと計測器で放射能の値を測っていました。

まったく、春まで存在すらわからなかったこの機械、いまではやたら目にする機会がふえましたね。

そして、ここから平石山を目指します。

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69 藪をこいで、ガレ場をいけば、左に平石山を仰ぐ、その先に、日暮しが待っている森があります。

しかし、最難関である、この急な斜面の藪に突っ込んでいかなければ、森に行くことができません。

背丈を簡単に越える藪に突っ込むのは、正直恐怖を感じます。

ところどころに熊の形跡があり、暑い日中は涼しい藪や森の中にいるので、みんなで大声を出しながら、突っ込んでいくことになりました。

崖の上から見える大きなナナカマドを目印に、森に入るとそのまま左に歩き、見えてくる大きな米栂の株立ちから少し斜め左上にある光がさすくぼ地の境に、日暮はひっそりと佇んでいます。

71これが米栂の株立ち、何度も雪で折れながら立ち上がった歴史がここにあります。ここからすぐに日暮があります。

74 日暮の幹です。相変わらず圧倒的な古色に、言葉を失います。

吾妻山で800年以上生き続けた松の歴史そのものです。

75 里で見かける松の古木、例えば赤松などは、古くなると樹幹部が割れていくつかの芯で、樹幹部を作りますが、日暮の最も驚嘆すべきことは、一本の筋がほぼ最長部まで伸びているということです。

この樹幹のつくりこそ、「空間有美」の作風の原点であり、象徴とも言うべき姿なのです。

この木が、我々に教えてくれることは、まだまだ計り知れません。

77 「今回で最後」と言って登った父。

「ちゃんと挨拶してきたから悔いはねぇ。」といっていました。

「もうあえなくても、頭ん中に、その姿がしっかり入っているから大丈夫だ。」

父も爺さんも、自然の中から自然の言葉を読み取るセンスには頭が下がります。

記念にと、二人(一人と一本)で写真を撮ってあげました。

87幹周りは2メートル15センチ。

斜面下に大きく倒れており、雪による倒木は免れない状況です。

頭にも、根元から倒れたアオモリトドマツがかぶさってしまい、頭の半分を覆っていました。

おそらく枯死まで数年ではないでしょうか。

94命からがら(この表現は大げさではなく)藪を這い出してくると、次に目指すのは平石山の山頂付近です。

101何故かここだけ平たい石があるから平石山。

105 ここで食べるお弁当が美味しかった。

107ここから眺める鎌沼が一番美しく見えます。正面に見えるのは東吾妻です。

116平石の合間を縫って実生が顔を出していました。

次の100年はもう、始まっています。

114今年は山の種が豊作です。

このあたりは、今では採取許可が下りないエリアになっています。

109 平石山周辺は、面白根上がりと、面白ジン舎利の宝庫です。

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99 ヤマタノオロチみたいです。

これでも生きているから凄い。

生きているものの美しさに感動できないということは、命に感動できないということです。

命に感動できないということは、命の大切さがわからないということです。

命の大切さとは、生きているであろう未来ではなく、生きている今に目を凝らすということです。

10帰りは鎌沼周りで下山しました。最後は長く続く下り道に、膝がガクガクでした。

3浄土平につくと、キンキンに冷やしておいたノンアルコールをグイグイ飲ませていただきました。

悪知恵は、年を重ねるごとに増すばかりです。

12この日は市内はこの夏最高の気温を記録したそうで、浄土平の駐車場も沢山の車でにぎわっていました。

残念ながら、殆どが県内ナンバーで、観光バスは一台もありませんでした。

今までなら、お盆シーズンに考えられない状況でしたね。

といっても、吾妻山的に考えると、「そんなのあんたらの都合じゃん」ですけど。

54福島に住んでるなら、今はこれじゃないですかね。

美味しい空気さん、ありがとうございます、って。

少なくとも僕は、空気を吸うのに理由はないし、お腹がすくのに訳はありません。

体が勝手にそうしてるだけです。

ですから、山に登って山頂でこれ見ると、「あー、そうだよなぁ。」っていつもありがたい気持ちになるのです。

今の福島、健康な体で、グダグダと悩んでいるんなら、一切経登山はオススメですね。

何が正しいかわからない?

テメーの体はどうなんだ?

理屈で体が出来てるんじゃないんだよ。

だったら、自分を信じて、滝のような汗でもかいてみろ!

福島見下ろして、言いたいこと何でも叫んでみろ!

それでもあんたは、一切経の頂上で、せまい世間を見るのかい?

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明日、会いに行きます。

あした、日暮しの松に会いに行きます。

日暮の松について↓

過去の日記  

ライブラリより 

もう会わないと決めて別れたつもりでした。

けど、やはり巡り会わせで会わざるえなくなりました。

明日は、那須五葉松の保存会の方と、カメラマンの方とご一緒に、あの枯れかけの老木に会いに行きます。

今わの際、にもかかわらず人を引き付けて止まない老樹。

道中危険もありますが、はたして会いにいけますでしょうか。

明日が楽しみでなりません。

その環境をその体で生きてきたから、「らしさ」が体に刻まれてきたから、ただひたすらに孤独に耐えて、孤独を愛してきたから、

僕の、父の、爺さんの、福島の人々の、そのアイデンティティが、そこに形となって在るから。

明日、福島の復興を信じて、祈ってきます。

平気で生まれ、平気で死んでいくその老樹に。

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うれしい針金掛け

五葉松も新葉が固まり、無理のない仕事なら針金掛けも出来るようになりました。

今月に入ってからは、草むしりと水遣り、夕方涼しくなってから針金掛けと仕事を進めています。

ちなみに、針金掛けのシーズンは、針金はずしのシーズンです。

これから秋にかけてさらに幹が太っていきますから、外すなら今です。

あまり食い込みすぎた場合は、秋、水の吸い上げが弱くなってから外すと、一緒に皮がむけにくくなります。

ところで、ここ数日、お客さんの盆栽の整形をさせていただいているのですが、うれしいことにお客さんは僕と同じ30代の方です。

ずっと前から興味があったそうなのですが、我が家に整形の仕事を頼めずにいたそうです。

去年一度、持込の素材を作らせていただいたのがキッカケで、機会があると盆栽の整形を依頼されるようになりました。

「空間有美」的に言いますと、大概の素材は、思い切り枝を抜いて、さっぱりと作ります。

それは、ある意味では持ち込み古い枝を若返らせることになるのですが、

若返らせるということは、持込の古さを重視する盆栽にとっては、場合によりますが、一度価値を下げてしまうと解釈されてしまいます。

骨董品は手入れ良く保管していれば、枯れて無くなるということはありませんが、盆栽の場合、ただ芽つみだけ繰り返して、樹を年取らせると、早い話寿命を縮めているともいえるわけで、

人間同様、アンチエイジングをしながら、若々しく年をとっていかせるのが、鑑賞する側としても良いんじゃないかなと感じています。

というわけで、初めて我が家でお仕事させていただくときは必ず、「樹が若返ってしまい、驚くかもしれませんが、覚悟してくださいね。」などと説明します。

その上で、そのご幾度と盆栽の整形を頼んでいただけることは、僕らにとっても凄くうれしいことになります。

人によっては、「待てない人」もいますから、こちらが上手く口で説明しようとしても、結局は2年後、3年後の結果をイメージできるか、或いはその姿がどうなるかをイメージしながらワクワクできるか出来ないと、伝えたくても伝わらないことになります。

棚の木が殆ど非売としているのは、値がつけられないくらい高価なのではなく、この棚場の盆栽が今行った仕事の先を進んでいる、生きた教科書、見本として在るという事なのです。

そうでなければ、今畑から上げたばかりの素材をパラパラと筋だけ作ったものオンリーでは、特に盆栽を初めてまだ日が浅い人には、まさか棚の木のように成長していくなんて、想像しがたいことだと思います。

極端な話、一粒の種から盆栽を作るということは、今でこそ1つの文化になりましたが、

爺ちゃんが始めたころは、指をさして笑われるようなことだったといいます。

しかし、目の前に実際具現化したその盆栽たちがあるからこそ、実生文化の証明になるものだと思います。

今、実生素材に夢を見れるのは、夢が夢とも言えなかった時代を自分の信念のみで手探りで歩き続けた先人がいたおかげだと感じています。

それは、「空間有美」もしかり。

その夢の続きを、同じ世代の愛盆家さんと歩けることに、とても大きな感動を憶えます。

歴史は今僕らの中に生きているからこそ歴史なのです。

文化は僕らの生活に根付いてるからこそ文化なのです。

これからも、若い愛盆家さんと一緒に盆栽を楽しんでいけるよう、丹精を続けていきたいと思います。

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NHkカルチャーセンターさんで苔玉教室でした。(話はそれていきます。)

先月27日、NHKカルチャーセンターさんで、苔玉教室をさせていただきました。

おかげさまで春の講座が終わり、夏も継続して行うことができました。

027 今回は涼しげにヘンリーヅタを持って行きました。

みなさん素敵に組み合わせて作っていました。

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こちらは生徒さんの作品です。

こうやって奔放な枝のままに飾っても涼しげですね。

秋になると真っ赤に紅葉するので、楽しみです。

028こちらも生徒さんの作品です。

長いツルは、そのままにしてもいいし、垂らしてもいい。

飾り方は、それぞれのアイデアです。

013ちなみにこちらは佐久間邸で飾った夏ヅタの苔玉。

同じツタと言っても、形の違いで表現は様々ですね。

よく上手に作る、というお言葉を頂きます。

とても光栄で、大変うれしいです。

ですが、実際には、素材選びが非常に大事でして、針金で矯正したりしない苔玉に関して言えば、特に、素材選びの段階で、苔玉の良し悪しは決まってしまうものです。

センスの在る無しをいってしまえば、みなさんそれぞれに感性があり、センスが無いというのは実際には無いわけで、

ただ、大事なことは自分の心が揺さぶられたものを、とにかく「真似る」ということです。

「真似る」というのは、何と何を組み合わせているか、だけでなく、どのように組み合わせているか、など細部を見るということです。

僕も良いと思ったものを「真似る」ことを一番に優先しています。

それじゃぁ、個性が無いとか、あえて違ったことを考えなくてはいけない、とか言われることがあります。

残念ながら、個性というものは意識できるものではありませんし、あえて違ったものとは、他の違ったものに属したに過ぎず、自分自身は元の自分のままということもあります。

個性とは、自分の体で出来ることであり、違いとは、完璧に近づけない自分と完璧な自分との差です。

ですから、自分の心が動いたものを、正直に「真似て」いれば、望まなくても個性的になっていくものだと信じています。

まして、選ぶ素材が自然ですから、個性は避けて通ることができません。

逆に言えば、全く同じものを作ろうという意識は、自然に対してもう少し謙虚になりましょうと、言いたくなってしまいます。

今回教室で皆さんが選んだ素材は僕がデモンストレーションで選んだ素材と一緒でしたが、それぞれが個性的に輝いていました。

ならんだ苔玉を眺めていると、うれしくて仕方ありません。

講師のクセにデジカメで写真を撮ってるんですから、アホンダラとは僕のことでしょうね。

ちなみに、今月の24日は山野草の寄せ植え教室です。

一回ずつの募集ですので、ご興味あるかたは是非ご参加ください。

よろしくお願いします。

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翼の生えた人、根っこの生えた人。

昨日、近くの学園で夢ケーキで知られる菓匠Shimizuの清水慎一さんが、子供たちと夢ケーキを一緒につくられました。その後、我が家にいらっしゃいました。

採用と教育の半田さんのご縁で実現したのですが、実はいらっしゃる前にこっそり夢ケーキの現場を見学させていただきました。

印象的だったのが、女の子が足をバタバタさせていたこと。

おそらく彼女が作る夢ケーキの肝の部分を前に緊張とワクワクが溢れて体で表現していたのだと思います。

なんだか、その一瞬をみただけでも、これは凄いことやってるんだなって感じました。

余談ですが、僕も大学時代片思いの子に初めてむこうから声をかけられて、うれしさのあまり外に猛然と駆け出して、「やったー!」と叫んでガッツポーズしたことがあります。

人はうれしさのリミッターが外れると、言葉では追いつかなくて、体で表現してしまうものだと僕は思っています。

子供は言葉に拠り過ぎてないから、なおさら体に出てしまうものなんだと思います。

子供のうれしい、たのしいって言葉より、この足をバタバタさせるってのが、凄いことなんですよね。

簡単なことじゃないですよ。子供は思ったより大人に気を遣ってくれるから、言葉より体の表現のほうがリアルに響くものです。

ところで、我が家では盆栽を飾った部屋で、親父と一緒にお話させていただきました。

みなさん親父のお話を熱心に聞いていて、うれしさ半分、はずかしさ半分でした。

一緒に同行されている夢新聞をつくっている皆さんも、このワクワクな出来事をされている姿をみて、

「こういった人たちが、これからの時代を作って、面白くしていくんだろうなぁ。」と感じました。

眼差しが違いますよね、そういった人たちの目が。

なら、僕たちは何が出来るか。

それなら、僕らは世界に羽ばたく人たちの止まり木になりたい。

飛び続けるのは、たやすいことではない。

深呼吸も必要だし、後戻りもあるかもしれない。

そんなときは、根っこを生やした人たちのところで、一休みしてもいいじゃないかな。

酒に酔った親父は、あれはもう自然そのものですよ。

癒されますよー。

冗談はさておき、人生にも「空間有美」を。

どうぞ羽休めを感じた時は、またぼんさいや「あべ」にお越しください。

わがやのトイレに貼ってある詩を引用します↓

木 (田村隆一)

木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木はささやいているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸い上げて
空にかえすはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ

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