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誰しもが本質に気づき、そして府に落とすためにその道を歩み始める

今回スイスの雑誌で掲載されています江口敬さんの写真、

色々な理由でこの雑誌に載ることになったのですが、ぼくはこの写真がとても気に入っています。

その理由としては、そこで実際に僕が目にした景色そのものだったからです。

...

どういうことかというと、この写真は民家園で行われた檜枝岐歌舞伎公演の時に客自軒に飾ったものなのですが、

2日目の昼過ぎに突然の大雨が降ってきて、僕は二階で雨宿り、その時江口さんは手前の建物で雨宿りしてたそうです。

そのあと雨が小降りになり、撮られた写真だと思います。

僕自身金屏風の光が強くて、気にしていたので、ちょうどこの時の空気感や色がベストだなぁと思っていました。

そのあとぼくが記録で撮った写真はどれも強くて残念だったのですが、その日の江口さんのフェイスブックにアップされたこの写真を見て、驚きました。

「そう、この景色だよ、俺が見ていたのは」って。

そして、ずーと府に落とせずにいたことで、自然らしさってなんだろうってあったんですが、この写真見て思いました。

自然らしさって、ただその木を模写したものじゃなくて、実際にそこにいる臨場感というか、空気感を伝えるものなんだなぁって。

写真って結構フィクションっていうか、実際見た景色通りに映らないんだけど、その実際に近づけようとすると、かなりいじったりすることってあると思うんです。

たとえば、自分が一生に一度の綺麗な朝焼けを見たとすれば、伝いたいのはその気持ちでしょ?

それを伝えるためには、ただ良いカメラでその場にいてシャッター押してもダメだと思う。

自分がその時感じた感動により近いところになるために作品を持っていかなければ、当然相手には伝わらないと思う。

それこそが自然らしさで空間有美の本質なんじゃないかな。

おかしな話だけど、現実だけが現実を伝える道具、手段じゃ無いんだよね。

盆栽は自然美と造形美で対比されるけど、そこは問題じゃなくて、作り手が何を作り、見る人が何を感じるかってことだと思う。

この江口さんの作品が彼にとってみれば些細な仕事だとしても、僕のハートにどう効いたかって事が今回の大事件なわけであって、

僕が写真に暗いとか、盆栽そのもののレベルだとか、そういったものはねのけても、やはりこの体験は次の誰かと分かち合いたいと思う気持ちが勝ったわけです。

だってね、盆栽も写真も歌も、その為にあるんでしょう?

はっきり言って、この世界はクソだけど、そのクソッタレな世界でも、「あぁ、何かおもしれぇなぁ」とか、「生きてるのも満更わるくねぇなぁ」とか、そのキッカケの一端を僕らの仕事がになっているんじゃない?

だからまだまだ僕はいっぱい素敵な景色を見て、ガチガチに作り込んで、それでも自然が良いなぁって思ってもらえるように、努力したくなっちゃうじゃん。

そんなわけで、僕に沢山の気づきをくれた江口さんのこの写真には感謝が詰まっております。

それと同時に個人的な話ですが、正直に埋め合せることの大切さも教わりました。

本当に1つの作品がもたらす物語には、不思議が尽きません。

江口さんありがとうございました。

この場を借りて御礼申し上げます。

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右下の写真です。

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