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皇居盆栽整姿の思い出 阿部倉吉

以前記事で紹介した初代阿部倉吉の自分史、打ち込み直しました。

率直に言って、祖父の人柄がよく伝わる内容だと思います。

また、この文を読むにあたって、今生かされていることの奇跡、そして、いかに多くの方々に助けられ今日1日があるのかを痛感させられます。感謝以外の言葉が見つかりません。

それと同時に、この年代の方々なら多かれ少なかれ皆相当な苦労を重ねて生きてきたと思います。

今を生かせれている僕たちが、今日の時代、盆栽を通して出会えたことのありがたさを共に分かち合えたら、嬉しいことだと思います。

皆様方、これからもよろしくお願い申し上げます。
こちらから、初代の本文です。↓

思い起こせば大正7年4月初旬、何の因果か我が家には大悪魔が舞い込んで私が一番先に4月初めに病気になり、次に姉、次に母、ついで父、おばあちゃんと一家五人の病人が出来て私が一人助かって、あとの4人がひと手間に4人も亡くなってしまったのです。

 

後に残されたのは男兄弟5人となり火が消えたようになった。翌年一番上の兄が兵隊検査なので屋敷の皆さんが弟4人を置いて兵隊にとられては困るというので心配して近所の神仏に念願してくれたので、その甲斐あって兵隊から逃れ、不合格となって大喜びをしましたことを子供心に残っています。

 

残された兄弟は20の兄が頭に、17、私11、下が5才と2才の乳児、私の姉は14才で死亡、私の妹は3才で縁側から落ち、頭を軒場石に強く打って死亡、それが女なしの兄弟5人となった。

 

右のような不幸続きで、医者よ、楽よで借金が重なるばかり。それで家、屋敷、田畑、山は全部借金の代わりにほかの人手に渡り、自分の家の土は一握りの土も無くなって、住むところも無くなってしまい、乞食同様の有様になり、3度の食にも事欠いてしまった。住み場も無くなってしまったので、一親類の物置を借りて入って居りましたがその親戚もつぶれて家屋敷が無くなってしまった。

 

それから他の物置を借りて居りまして茅葺屋根の家を建てた今入っている家は4軒目の家です。

 

話は後に戻るが、右のような不幸続きで昔は一人の病人でも大変だったので、一家5人の病人に4人も一手間に亡くなってしまいその上5人と乳飲み子を残されてしまったので、我々兄弟は途方に暮れていました。女なしで10年間過ごした兄弟は一家の暮らしを立て行くには乳児など育て行くことは出来ないし、そうかといって親戚でも育ててくれる家もないし、他人の家だって自分の家の子供を育て行くにも精一杯ですから、他人の子供など育ててくれることは出来ない時代でした。

 

昔は今のように民生委員もなければ、健康保険、託児所もなかったから、兄は弟の乳児は可愛そうだが他人にくれる外はないと思い、そのころ近くの上野寺に馬喰(ばくろう)さんが居りまして、その方は馬屋がないので、私の家の馬屋が空になっていたので、我が家の馬屋をかしておりましたので、自分の馬屋のようにつかっておりましたので、兄はその方に「あんだは馬喰で所々方々を歩くから、どこかに乳飲み子を育ててくれる家があったなら、世話してもらいたい」と頼んでおいたのです。その頼むとき私はいなかったのです。

 

児玉孫八さんという馬喰さんが伊達の方に乳飲み子をもらう家があると云うことで家に来たのです。そのときは私が居りまして、その話を聞いて弟良雄が他にくれられるなんて可愛そうだと思い泣いて、あんちゃん、今は物覚えもないので何もわからず貰われていくが、あとで物覚えの付いたころ、お前は貰い子だなんて言われると可愛そうだし、又、その家でいわれなくとも他の人から教えらるものだから、どうしても可愛そうで他にはくれることは出来なかったのです。それで私はどんな難儀をしても学校には行かなくともいいから、乳児を育てるからと言って、一年間は学校に行かずに子育てにかかりました。5才の弟を面倒を見ながら、乳児を抱きかかえ、洗濯、針仕事、食事の方まで私が受け持ちでした。兄弟は働かなければならなかったから水仕事や子育てまでは出来なかった。乳児には母乳がないから米の粉を冬に凍らせた寒酒粉に湯を入れて少々甘みをつけて飲ませました。この子育てや我が家難儀は一々並べてからは筆にも口にもあらわせない事が数あります。

 

私は生まれながらにして野山の草木や昆虫に興味があって物覚えがついたときから山野の草木や園芸植物を自分の庭に植えて楽しんでおりました。子供をおんぶしながら野山に行って、草木をとって自分の植木場を作って取ったり貰ったりして眺めていました。

 

時に大正89年ごろに五葉松が流行して我が地域でも吾妻山に行って五葉松のとってこない家は殆どない位でした。そのころ私の兄二人も近所の人たちに連れられて五葉をとってきたのです。その時兄におまえも好きだから、お前にこれをくれるからと言われ、小さい五葉松を貰って昔は鉢など買われないから、缶詰に穴を空けて植えていたのが五葉松の始まりで、17の年から針金掛けの始まりです。

 

その当時近所に魚屋さんで吾妻から山取する方で、留さんという方が針金掛けをしておりましたので私も真似をして整形を始めたのです。

そのころ東京巣鴨には日本一の整形の名人斉田金作親方という方が居ると聞かされ居りまして、そういう名人の弟子になって私も何とか木作りを出来るようになりたいものだな~と思っておりました。

 

自分の松を作って居るうちに近所の方々から我も我もと頼まれ、しまいには他県まで頼まれるようになりました。そのころになって栃木県佐野町から市村万之助さんという方が吾妻五葉松の買い出しに来ておりまして私が方々案内をしておりました。この方は巣鴨の親方のおかみさんの弟さんに当たる方なので、この市村さんにお願いしたなら何とか弟子にとって頂かれるかと思って、思い切ってお願いしたのでした。世に知られる整形師になるには何としても有名人の弟子となって、整姿のコツ、急所を習わなければダメだと思い、井戸の中の蛙、大海を知らずとの世のたとえの通り、大海を見に行く決心をしたのです。

 

市村さんにお願いしたところ、早速願いが叶って、弟子入りをすることにしました。それに付いては私が一人暮らしで畑には五葉松の実生を仕立てて置き、庭の盆栽棚には鉢植えの盆栽と猫一匹居りました。それで兄弟5人集まって相談して鉢物盆栽の良い物は近くに居る兄に頼み、畑の五葉松の手入れは人夫を頼んでやってもらうことにしましたが、困ったことは猫です。犬なら連れて行ってクサリでつないでおけば良いが、猫はそれがきかない。それでも兄が猫を連れて行ってヒモでつないでおいたが、暴れてダメなので、私の空き家へ連れて来て、猫の飯を運んできてくれておりました。私の留守中は猫一匹で留守をしていたのです。私が東京から帰ってきたときは猫は喜んで私の足にからみ付いて大喜びをしてくれました。私もお前一人で留守居をしてくれたのかと礼をのべた。次に東京へ行く時は、その猫が死んでしまった。その時死んだ猫に、お前は俺の出世のために心残りの無いように死んでくれたのかと礼を述べて葬って、巣鴨入りをして親方の教えを守り、一生懸命勉強した。

 

小学校の読本のカラマツのことを思い出し、カラマツは学校の庭に植えられたときは生徒の背より低かったが、「今にみておれ僕だって、見上げるほどの大木になって見せずにおくものか」と一生懸命になってずんずん大きくなって見上げるほどの大木になって見せたという事を本に書かれてありましたので、私もこの事は寝ても起きても頭から離さず勉強をしたのです。

 

それで親方からは俺の弟子に思うような弟子が一人もいなかったが、お前が出来て安心したと褒められました。それで私は親方の技術を後世に残したいと思って親方の整形の空間有美のつくり方をしています。親方からは東京にいるようにと勧められましたが、私は郷里に帰って、畑で名木を作りたかったのです。親方からは前に皇居の盆栽を整形にいった話を聞かされましたので、私も親方の弟子になったからには、そのぐらいの腕になりたいものだと、寝ても起きてもなんとか良い木を作れるようになりたいものだと考えられずにはおれませんでした。

 

親方からは売るという事は考えずに、良い木を作るという事だけを考えて、良い木を作れば儲けたくなくとも先から儲けさせてもらわれる。それで好き者の好む良い木を作れと教えられました。それで親方の教えを守り、欲得からはなれ、盆栽一筋にやってきましたので、皆さんから親しまれ喜ばれております。

 

戦後大宮の九霞園さんへ頼まれて盆栽整姿をしておるなかに、皇居の盆栽整姿をすることになりましたから、私にも行ってもらいたいと言われ、びっくりしました。その時は天にも昇るような嬉しさと喜びで胸いっぱいでした。これも巣鴨の親方と九霞園さんのお蔭の賜と感謝せずにはおられませんでした。盆栽整形業としてこれ以上の光栄は無いと思いました。皇居の盆栽整姿のはじめは、昭和30年の秋、11月頃でした。国風展には私が整形した五葉松を展示されました。

 

三人でネクタイを取り外して仕事をしておるところに天皇陛下がお出ましになられて慌ててネクタイをかけようとしたところ陛下は「アー、そのまま、そのまま。」とお言葉がありました。

 

次に私が一人で整形をしているところへお出になりましたから、陛下にお尻を向けては失礼と思い脇に寄ろうと思ったところ陛下は、「そのまま仕事を続けて。」とのお言葉がありました。

 

松を作って居るところを見て、「今作って居る松、あと何時間かかるか。」

答、「二時間くらいかかります。」、

陛下「アー ソウ。」

棚の上に出来上がった松を見て指をさし、「こちらもできたの。」

返事(はい)。銅線を巻いて居るところを見て陛下、「これは銅線だね。」

答、「ハイ、銅線です。銅線をわら火で焼いてやわらかくして使うのです。」、

陛下「アー ソウ。」

 

私は皇居の盆栽を整姿しただけでも光栄と思っていたのに、右のようなお言葉を頂くなんてもったいなく、まるで夢のようで頭がボーっとして、夢中でお答えしたような気がします。このときは私は盆栽が好きで良かったなーとつくづく思いました。盆栽でも好きでなかったなら、陛下からお言葉を頂戴するなど、てんとう様に石を投げつけると同様で及びもないことです。これも盆栽のお蔭です。このときは私も子供の頃に難儀したかいがあったなーと思いました。

 

皇居の盆栽整形に行く時は福島盆栽愛好会の役員の方々から福島駅より万歳の声で見送っていただき、また帰ってからは祝賀会を催されまして、記念品を頂きました。

 

宮内庁内には泊まる場所がないので私が苦労して育てた弟が東京板橋に住んでいたので、そこに泊まって皇居に通いました。私は弟に、お前が二才の時に兄によそにくれられるところ、俺がお前を可愛そうに思って、兄に泣いて、俺がどんな苦労しても学校に行かなくとも育てるからと兄に頼んで俺が育てたお蔭で、皇居の盆栽作りに泊まって通われるのだと言いました。よそにくれてしまえば、お前の世話にはなれなかったと聞かせました。私は子供のころから難儀をしたその報いで、今は幸せの日々を送っていられるのだとおもっております。

 

学校には3年生まで満足にいきましたが、4年から6年までは子守をしながら行ったり行かないだりで終わってしまいました。学校の先生には子供など連れてきては勉強ができないから連れてくるなと言われたが、こうゆう訳で子供をおんぶして来なくてならないのだと先生に話をしたことがありました。苦労して育てた弟とその上の弟、又兄たちも亡くなり、私一人となりました。

 

天皇陛下が福島市の平野果樹試験所にお出での際、場長と話をする部屋には家の盆栽を飾りました。私の書いた植物の有用薬用方言集というのが、福島県庁自然植物研究会、園芸農産課(編集)を県庁から宮内庁に申請して頂いて、陛下にご覧になっていただきたいと思いました。天皇陛下は植物がお好きのようでしたから。

 

私が皇居に行って居るころ居たと聞かされました、福島県伊達郡となり郡の伏黒出身の小野さん(庭園主任)又隣村からの熊坂さんたちに言われましたが、我々ここに居ても陛下からお言葉を頂くなんてそう無いのに、阿部さんは来る度にお会いでき、お言葉を頂かれるので、幸せだと言われました。

 

うちのばあさんも、天皇陛下の有難さに感激を受けまして、二回ほど陛下の墓参りに行きました。

 

 

 

 

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棚場に理念が現れている。

吾妻五葉松、実生59年生。

畑からあげたのは今から20年ほど前。
その時はまだ双幹でした。

その後、子供が親幹の激しい幹ぶりに合わないことから、2代目が親幹だけで作ることになり、その時に親幹を思い切りの下げて、姿を出しました。

ちょうど僕が修行中に帰省した頃、だいたい15年ほど前にあら作り直後で、その時の姿が一番下の写真です。

太い幹に見合わない枝数に思わず、
「この幹に、文人木(細い幹)のえだづかい?」
と質問すると、2代目は、
「これでいいんだ、幹は古くなると太らないけど、枝は太って大きくなる。初めにちゃんと枝筋を作っておかないと、後でやり直しがきかなくなる。ごまかして木を大きく見せる作りをしては、この木の将来のためにならない。」といっていました。

それから15年。ようやく、幹に見合った葉ばりがついてきました。もう少しです。

初代倉吉の言葉。
「人が3年かけるものを5年かけろ。5年かけるものは10年かけろ」

その実践を棚場の木で証明してくれるから、空間有美の面白さにますます引き込まれていくのです。

今の時代、ゆっくりとした時間の物差しが失われてく時代。盆栽と自然から学べることはまだまだありそうです。







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イメージが大切。

赤松。

お客さんのお手入れです。

樹齢は100年は経っているそうです。

はじめあら作りしたのは20年ほど前。
その時は、大きな木箱に入って養生中でした。

少しずつ今の差枝を大きくしていって、ようやく今回、後ろ側の差枝を小さくして、本来予定していた差枝に建て替えることができました。

枝を作るというのは、一枝、一芽からの創造です。

将来、自分がこの木をどういった姿にしたいのか、明確な景色を思い描けなければ、思い切りのいい枝抜きはできないのです。

想像力は鍛えることができます。

それにはまず、自然の景色を見なければ。

それが僕らにとっては、吾妻山なのです。

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個性とは自分との対話。

吾妻五葉松、実生49年生。

この年代においては、王様の品格

お客さんの棚に入ってから、20年ほど経っています。

ようやく、幹の迫力に見合う葉ばりがついてきました。

差枝の使い方がとても特徴的で、本来の理想の出る位置よりずっと高いのです。

それをどう見るか、そこもまた見る人の感性が試されているというわけです。

自然を眺めるというのは、常に自分との対話です。

僕はこの木の差枝の使い方に、この木の個性を感じます。大好きです。

さあ、あなたは?



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吾妻五葉松盆栽展!

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福島市西部にそびえる吾妻山は、盆栽の人気樹種、五葉松の日本三大産地として有名です。

また、吾妻山の自然が作り出す五葉松の樹形は特徴的で、先人たちの時代からその姿をお手本に数々の盆栽が作られてきました。

中でも、ぼんさいやあべ、初代阿部倉吉はその独特の感性と自然への審美眼から「空間有美」の作風を確立することになりました。

その作風は現在2代、3代へと受け継がれ、今なお多くの人々を魅了し続けています。

さらに近年では、その作風を目当てに海外からのお客様もここ福島に来てくださっています。

この展示会では皆様に、吾妻五葉松の盆栽を通して、吾妻山、福島の盆栽文化の魅力を伝えていきたいと考えています。
...
当日は、盆栽展示に加え、デモンストレーションやミニ盆栽の即売など予定しています。

また3代目が時間のゆるす限りガイドいたします。

お時間のある方はぜひ、足を運んでくださいませ。

↓当日の案内チラシはこちらから
https://mail.ocn.ne.jp/service/home/~/福島特産市表.pdf?auth=co&loc=ja&id=274023&part=2.2
https://mail.ocn.ne.jp/service/home/~/吾妻五葉松展裏.pdf?auth=co&loc=ja&id=274180&part=2.2

コラッセふくしま
http://www.corasse.com/

福島観光コンベンション協会
http://www.f-kankou.jp/

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西風、吹いてます。

米栂。

ご縁あって手入れしている木です。
3年前に枝が暴れて枯死に向かっているところを、あら作り同然で姿を出しました。

その時は石についていたのですが、石から外して植え替え、肥培に勤めてきました。

今回は、それから2回目の針金掛けです。

相当枝が間伸びしていましたが、誤魔化して枝を伸ばし手繰り寄せたりしないで、少しずつ胴吹きさせた芽に追い込んできました。

まだ、間伸びしている部分もありますが、ようやく姿が出てきました。

ここから3年後に、展示会に出せる状態に仕立てていく予定です。

空間有美の仕事は、時間がかかるといいますが、次の段階が見えれば、焦って欲張れば、結果的に遠回りになることを経験的に知っています。

さあ、西風に耐え抜いた自然の景色、皆さんに届けられるように、ここからまた丹精のスタートです。

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その時代を知りうる古老。

米栂、株立ち。

山実生で、50年前には30㎝くらいの背丈のものを、畑で培養して育てました。

樹齢は80年くらいと思われます。

祖父の名前で30年ほど前に祖父の名前で展示会に飾られています。

この頃が1度目の隆盛期といったところでしょうか。

その後、大きく作を落として、当時の面影なくガレてしまいましたが、5年前に残った枝で作り直し、針金掛け3回目、ようやく姿が現れて来ました。

ここから3年ほどかけて、葉張りをつけていこうと思います。

当時の怒涛の流れとは違い、苦節を乗り越えた古老といったところでしょうか。

さて、この米栂の古老、この先30年の中で、僕たちに何を語り、何を伝えていくのでしょうか。

僕たちは、その言葉に耳を澄まさなければいけません。





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どデカくピーアール

日進堂さんから、素敵なポスターが届きました。

ちなみに姪っ子と二代目です。

着々と3月の展示会の準備が進んでおります。

こちらのポスターは近々西口のコンベンション協会さんの入り口でも見ることができると思います。

来週には展示会の案内も出来上がる予定ですので、とても楽しみです。

詳細は追ってご報告します。

ここまで力を入れて頂いて、感激しています。

さあ、春からエンジン全開だぁ!

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曲がりくねった幹の先に。

元接ぎ40年以上。吾妻錦。

実生5年生程度の苗木の足元に葉性の良い枝をついで伸ばして育てたものです。

40年ほど前に母親と弟子の早川さんが畑に植えた苗木に太い針金を巻いて、父親が曲を入れていきました。

この木は、7年まえにあら作りをして、今回で3回目の針金掛けです。

足元が力強いので、もう少し樹冠部が大きくなると落ち着きが出てくるかと思います。

振り返ると、くっきりと見える足跡。

前を見ると、輝く光。

盆栽って、素敵だなぁ。

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かすかに感じる早春の光。

朝の光を受けて、障子戸に浮かび上がる盆栽。

こういった景色との出会いが、盆栽の奥深さを教えてくれます。

ありがとうございます。

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